第7話 小 僧 蕎 麦
喜の字組の普請場はそれまでよく見聞きしたものとはちょっと違っていた。
まず、空地に厠が三棟建った。それまでは小便は空地で、大きい方は近所の長屋のそれを借りるか、酷いのは野糞というのが普通だった。
簡単な板囲いとはいえ、人足専用の厠ができたのは珍しかった。
糞尿は肥料として売れたから、それは空地を貸してくれた大家さんへの賃料のおまけになった。
また人足専用の休憩所も作られた。梅雨明けすぐだが、これから陽射しがつよくなる。夕立もあるだろう。柱とちょっとした板囲いと屋根だけの小屋だが、日射しをよけて、中に茣蓙を敷いて横になることもできる。
そしてなんと、小屋脇には屋台の蕎麦屋が出た。蕎麦と言えば夜、というのが相場だがここは早朝から売っている、
暖簾には『小僧蕎麦』そう、あの竹やシゲやトラが営む蕎麦屋なのだ。器が色々いる笊は出さない。薬味はネギだけのぶっかけ蕎麦。しかし、普通一杯十六文の二八蕎麦が喜の字組の人足なら半額の八文で食える。
前の晩、呑みすぎて朝飯も食わずにやってきた人足達には有難い蕎麦だった。
「旨そうな匂いですなあ」
近所の暇な旦那が普請見物にやってくる。
「ガキが見よう見真似で打った蕎麦で、お味見なさいやすか?」
話しかけられた源兄いがトラに声をかける。
「おぉいトラ、一杯持って来い」
へーいと声がして、盆に載せた丼をトラが運んでくる。
昨日の菰樽の空いたのを椅子代わりに蕎麦を差し出した。
「私は人足さんじゃないので、ちゃんとお払いしますよ」
旦那が差し出した十六文を受け取ったトラ、小声で源兄いに聞いた。
「あ、あのさ、シジミ売りの子がさ、売れ残ったから引き取ってもらえないかって」
と屋台の方に顔を向ける。天秤棒に盥を吊るした少年が、遠くからぺこりと頭を下げた。
「シゲに言ってやんな。お前えの店だ。お前えの裁量でやれって」
頷いて屋台へ駆け戻るトラに、追いうちの一言
「ちゃんと買い叩くんだぞ」
「シジミ蕎麦ですか、旨そうですね。いや、このままでも美味しいですけど」
旦那がお世辞を言う。
「ほどほどでいいんです。あまり旨すぎて、近所の長屋の衆に押しかけられても困るんですよ。ガキなもんで大量の蕎麦は打てやせんから」
ああ、なるほど・・と得心した旦那、ところで・・と見回して、
「今日は親方、どこかへお出かけで?」
「小頭のことですかい。親方なんぞとふんぞり返るのはおこがましいってね、あそこにいますよ」
指さしたのは堀の中、水を堰き止めた浅瀬に尻端折りに上半身裸になって掛矢を振り上げている。傍らの大男と何やら言い合っているようだ。
「ヤンチャなもんで・・」
呟いた眼が愛おしそうだった。
蕎麦を食いながら思わず見惚れていると、袖に手を通しながら、土手の上に戻ってきた。ぷんぷんしている。
「もうっ、鶴次郎の兄貴、どうしてあんなに頑固なんだろ。見損なったね」
「頑固なのは小頭もおなじでしょうに」
「だって・・」
そこで源兄い、蕎麦を食い終わった旦那がいると喜市に目で教える。
「あ、い、いやちょっと掛矢のね、軽めの物もいいんじゃないかって、初心者向けに」
「鶴さんだって解ってまさぁ、ほら・・」
指さすと、鶴次郎が、喜市が置いて行った掛矢を取り上げた。喜市が両手で持ち上げていた物を片手で軽々と振り上げている。そして背中を向けたまま、ちょいと振ってみせた。
「す、凄え」
喜市は土手際で叫んだ。
「やっぱり鶴の兄貴、最高。日本一」
普請現場が暖かい空気に包まれた。
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