第6話 梅 雨 明 け
空梅雨だったとはいえ、それなりのお湿りがあって、浜町の堀も少し増水していた。
喜市は観音屋の法被でぴしりと決めて、源兄ぃと蘇芳色の手拭を山と積んだ三方を持たせた若い衆二人を伴って、堀の両側に並ぶ商家を一軒一軒訪ねた。
明日から堀の普請をすること、出入りの舟にはなるべくっ迷惑にならないよう気を付けるということ、
そして、普請に先立って本日八つ半、近所の神社から宮司を招いて普請の成功と事故の無いことを祈念してもらうのでよかったら、立ち会っていただきたいと口上をのべたのである。
これまでの普請現場では、俗にいう向こう三軒両隣。現場のごく近くの家に挨拶はあったが、こんなことは珍しい。しかし、考えてみると、普請はこの堀を利用する全ての人たちに関わることである、挨拶があってもおかしくはない。
商家の習いで、お捻りを差し出す店もあったが、源兄ぃがこれをきちんと書き留めているのを知る者は少なかった。
そして八つ。どんな祈祷をするのかと野次馬気分で見物に行った小僧や手代は大慌てで帰ってきた。
すごいことになってます、という報告に、慌てて羽織を羽織った旦那衆がいってみると、堀際に設けられた祭壇脇に普請方の武士が四名いかめしい面持ちで座り、それと差し向かいで喜の字組の面々、そして正面に旦那衆の席が設けられていた。また土手に沿って、通行の邪魔にならないよう二列に並んだ人足たちが居並んでいる。
若い衆に案内されて祭壇前に向かうと、祝詞を終えた宮司がおもむろに御幣を振る先には薦被りの樽酒。|
鏡割りをした樽から真新しい柄杓で酒を汲んだ宮司が、それを川へ注ぐと人足達が拍手した。
喜市が土器を武士に手渡し、あらかじめ備えてあった祭壇から徳利を下げてきて土器に注ぐと武士たちは祭壇に一礼して飲み干した。
喜市は土器を見物に来た旦那衆にも手渡し酒を注いでいく。
一方、蓋の開いた薦被りは土手に持ち出され、人足達に振る舞われているようだ。
だが、旦那衆の目が釘付けになっていたのは、薦被りの収められていた上に張られた注連縄で、それには[御祝儀 ○○屋様]などと書かれた短冊が下がっていたのである。
祝儀として出した店もあったのだろうが、中には駄賃や挨拶代わりとして十文、八文(四文銭というのがあり、これが二枚。およそ百円)で済ませた店もあった。
慌てて懐紙に包んだ金を差し出す旦那衆もいたが、喜市はそれを一旦断って、
「ありがとうございます、勝手ながら御祝儀は文銭か小粒銀でお願えしてえんでさ」
大阪は銀、江戸は金と言われるように、小判の一両も、その四分の一の一分金も、更にその四分の一の一朱金もすべて金である。ところが庶民にはこれが使いづらい。文銭は四千枚で一両であり、穴開き銭であることから紐を通して持ち歩いたが重いし嵩張るしで、これも使いづらい。
そこで生まれたのが小粒銀。銀は変動相場制で、街角で銭売りが文銭に変えてくれたが、だいたい一両の六十分の一。六十五文から八十五文くらいだったらしい。
何しろ・・と喜市は説明する。
こういう現場に怪我は付き物、万一に備えて医者代や薬代は見積もりに組み込んでいるが、怪我人に家族がいた場合の生活費までは想定していない。そこで・・
「皆さんから頂いたご祝儀をこの宮司さんに一旦お預けして、怪我人が出た場合の家族の食い扶持に充ててえんでさ。で、もし怪我人が出なくて余ったら、神社と喜の字組で山分けにしようと・・」
「なるほど、それで宮司さん、気を入れて祝詞をあげなすったわけか」
旦那衆の一人が茶々を入れると、集まった人々からどっと笑い声があがった。
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