第2話 盗 人
その帰りだった。室町辺りを通りかかると、屋敷裏の船溜まりに入って行く猪牙舟を見かけた。
荷は積んでいない。
あそこは宗助が奉公している近江屋だなと見るともなく見ていると、七つの鐘の捨て鐘が鳴り始めた。
それが合図だったかのように裏木戸を開けて、女中が姿を見せ、入り濠に汚れ水を捨てた。と、猪牙舟に乗っていた船頭が煙草入れのような物をポイと投げた。女中は素知らぬ顔で辺りを見回し、足元に落ちたそれををすばやく拾って懐に入れた。
女中が、船溜まりの入り口を通り過ぎた喜市に気付いたかどうか分からなかった。
「とっつあん、そこの入り濠から出てくる舟、見てやってくだせえ」
すると、粂爺ぃは櫓漕ぎを緩め、ちらりと横目でその舟を見た。
「見たことのねえ船頭だ」
粂爺ぃは川筋を行き来する船頭なら。大概の顔を知っている。
怪しい猪牙舟が横を追い抜いて行く。
「船宿の名を汚した上にむしろで隠してる。ありゃあ盗人舟だぜ」
「盗人舟?」
「盗人と限った訳じゃあねえが、よくねえことに使おうとしてる舟ってこった」
喜市はさっき見たことを粂爺ぃに告げた。
「代わってやるから尾行けてみな」
櫓漕ぎを代わってもらった喜市は、気付かれないほどの距離をとって、怪しい猪牙舟を追った。
暮れ六つの鐘が鳴りだすと、大店は一斉に大戸を下す。その直前、喜市が近江屋に駆け込み、宗助を呼び出した。
天水桶の陰で、耳打ちする。
「うちが盗人に狙われてるってのかい?」
「心当たりがなけりゃいいんだ。ちょいと妙な動きをする舟と女を見かけたもんでよ」
小柄な中年増で、黄色い片襷をかけていたと女の様子を教えると、
「ああ、そりゃ賄の・・あ」
言いさして宗助は顔色を変えた。
慌てて潜り戸に向かいながら、首だけで振り返り礼を言う。
「ありがと、喜市っちゃん」
「何かあったら呼べよ。今夜はこの辺りにいるから」
うんっと子供の頃のような返事が聞こえた。
それから小半時(15分から20分)、近江屋が地揺るぎのように動き出した。
まず手代が二人、三人と連れ立って、湯屋に行くような格好で勝手口から出てきて、違う方向に足早に向かった。
次に小僧が二人、走り出てきたと思ったら、提灯を燈した駕籠が二丁やってきて、若旦那と若女将がそれぞれ子供を抱いて乗り込み、どこかへ走り去った。
出かけていた手代達が帰り、しばらくすると十手持ちらしき中年男が着流しの侍と共にやってきて、潜り戸を叩いたが中には入らず、出てきた番頭らしき年寄りと天水桶の脇で何事か話していたが、さっさと帰って行った。
最後に、二本差しの明らかに用心棒が三人、庭の方に回って行った。
喜市が宗助に知らせてからここまでで、一刻半(3時間)も掛かっていない。見事な大店の緊急体制だった。
喜市は見届けて、粂爺ぃの待つ猪牙舟に戻った。猪牙は古い船宿の桟橋に舫ってあり、そこからあの怪しい猪牙舟が入って行った入り濠が見通せた。
「どうだったい?」
粂爺ぃが訊いた。
「粂爺ぃのおっしゃる通り、見事な手の打ちようでした」
「だろ?」
粂爺ぃは舟底から風呂敷包みを取り上げ、二つ入っている竹の皮包みの一つを取り上げると、竹筒と一緒に渡してよこした。
「町木戸が閉まってからが勝負だ。腹ごしらえをしときな」
中身は大きな握り飯が三個と沢庵、佃煮が添えられている。竹筒には酒。
「めったに拝めねえ盗人見物だ、いや、捕り物見物か」
すでに一杯きこしめしているのか、粂爺ぃはご機嫌だった。
その時、思いがけず近場から声がかかった。
「やっぱり粂さんかい」
見ると、さっき近江屋の天水桶の脇で、着流しの侍と一緒に番頭と話していた十手持ちらしき中年男だった。
「お前さんが喜市さんだね。赤い手拭首に巻いてるってえから見てたんだが」
「すみません、近江屋さんがどういう手をうつのか、心配だったもんで」
「宗さんの友垣だってね」
「宗助の奴がお世話んなってるようで」
頭を下げると、
「よしな、袖の下ねだられるぜ」
粂爺ぃが不機嫌に言った。
「この海賊橋の平吉、誰彼構わずねだったりはしねえぜ、粂さん」
「おう、よく言った。この先俺っちの弟子の喜市から袖の下を取ろうなんてしやがったら、ただぁおかねえ」
へ・・?と呆れ顔の平吉の傍らに、着流しの侍が寄ってきた。
「平吉、何やってる?どの船宿か聞けたのか?」
「こ、こりゃ小泉の旦那。いま聞いてるとこでして・・」
粂爺いが握り飯の包みを抱えてそっぽを向いてしまったので仕方なく、喜市が怪しい猪牙舟が入って行った入り濠と、その先にある古びた船宿を教えた。
「十年も昔、名張の権蔵ってえ盗人に押し入られて一家皆殺しにあった”尾上”ってぇ船宿だ。幽霊が出るってんで買い手がつかず、空き家のままだそうだ」
粂爺がそっぽを向いたままそう言うと、
「ふむ、さすがに水澄ましの粂だ。よく調べた」
そして、すぐに小山様にお知らせして手配りを、と命じて平吉をおいやると。
「十人のボンクラ目明しより一人の粂さんって、亡くなられた横田様がよく言うておられたな」
と、粂爺さんの肩を叩いて去って行った。
舟の中は静かだった。
闇に沈んで行く街と川面が、空に残るわずかな光を奪い合うように薄い形を見せている。
「横田って同心様は立ち姿の綺麗な粋なお方でな、何流かは知らねえがヤットウの腕は御番所一ってぇ評判だった」
声の調子で、粂爺ぃの辛い話だと知れた喜市は、へいと小さく応えて少し身を寄せた。。
「そんころは俺も船宿の雇われでよ」
船頭仲間から聞いた話なんかをお知らせしたり、張り込みを頼まれたり・・大きな事件の時には、船宿に話を通して月極めで専属の御用船として働いたこともあった。
「正太が生まれたばかりで、横田様から頂く過分な礼金も嬉しかったが、何より刃引きの刀で悪党をばったばったと叩き伏せる横田様に惚れ込んでたんだ」
舟提灯に火を入れた粂爺ぃは煙管を取り出して提灯の火を移し、ふっと煙を吐いた
「梅雨の真っ最中だった」
雨では船頭仕事もあがったりだ。昼間っから飲み屋の隅でチビチビやっていると、どこかで見たような顔の男がこそっと入ってきた。
手拭で頬かぶりしているが、どこで見た顔だったかと思っていると、{大徳利でくんな、金ならある}と懐から小判の端をのぞかせた。
「小汚いなりの男が小判なんか持ってるわけはねえ。で、ピンときた」
”山嵐“という盗人一味の似面絵で見た顔だと気付いたのだ。
雨の中、男の後をつけ塒を確かめると横田様に急報した。横田様は(捕り物)にせず、たまたま悪党を見つけた態で捉えることにして粂爺ぃに案内を頼んだ。
「手札もらってる本職の目明しにもできなかったことをやったっていい気ンなって、帰ったら、おかつも正太もいねえのよ」
近所を探し回って、ふいに思い出した。
「出がけに言ったんだ。時々は舟が無事か見てくれって」
舟の置き場に走った。そこは地獄に変わっていた。
「川雪崩、鉄砲水だ。根っこのついた大木や大きな岩がごろごろと・・」
暗くなって,風が出てきた。冷たい風である。粂爺ぃの声が風に飛ばされる。
喜市は黙って粂爺ぃに身を寄せ、風除けにもならないが、粂爺ぃの背中に手を廻した。
「おかつが正太を負ぶって岸に下りていくのをみた人がいた。鉄砲水はそのすぐ後だったそうだ」
喜市は粂爺いの背中をそっとさすった。
粂爺ぃはしばらく懐から出した古手拭に顔を埋めていたが、やがて、高らかに鼻をかむと
「だからよ川ぁ仇なんだ。仇で、命の親で」と呟いた。
「へい」
「この船は、横田様がお奉行に掛け合って作ってくださった、けど、横田様が亡くなるまで、御番所仕事は二度とやらなかった」
「へい」
「行くか、そろそろ」
「へい。あっしに漕がせて下せえ。夜の川ぁまだ漕いだことがねえんで」
頷いた粂爺ぃは喜市と櫓を交代すると、
「つまんねえ話聞かせて悪かったな」
と小さい声で呟いた。
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