お圭   その四

@ikedaya-okami

第1話   喜 の 字 組

 開闢以前の江戸は湿地帯だったそうだ。そこに街を作り、人が住めるようにするためには河川の整備改修が欠かせない。また人口が百万人を超すようになると、飲み水だけでなく、物資を運ぶためにも川が重要になる。

町中では馬に乗るか、歩くより他に移動手段のなかった時代、川とそこを行き来する船は。大量の人や物を運ぶ血の管のようなもので、自然の川だけでなく、網の目のように掘割が掘られた。

自然の川の護岸工事も人工の掘割の石垣も毎年の台風や、最近とみに多い地揺るぎで痛むことが多い。大掛かりな改修工事も行われるが、比較的小さな工事は、江戸の町のどこかで毎日のように行われていた。


「喜の字組というんですってね」

源兄ぃが振り向いて言った・

「え。ああ、仮の名だよ。名前がないと不便だってえから・・」

「良い名じゃありやせんか。元締めも・・」

「え?親父にも言ったのかい?」

「申し上げやしたよ。町名主さまやらお役人様方にお願いするにも、入れ札するにも名前がないと困りますからね」

「じゃあもっと威勢のいい粋な名前にすりゃよかった」

源兄ぃはくすくす笑っている、

二人は神田川の橋下近く、船宿の桟橋に向かっていた。喜市が江戸中の川や掘割を見てみたいと言い出して、それならついでに船頭修行をすればいいと、源兄いが同郷の粂二という老船頭に引き合わせてくれることになったのだ、

「粂さん、来てるかな?おお、来てる来てる。粂さあん」

呼びかけると、四段ほどの石段に腰を下ろして煙草を吸っていた爺さんが立ち上って右手をあげた。

漁を生業にしている人は別にして、川を上り下りする船頭はみな、舟問屋か船宿に雇われているのだと喜市は思っていた。しかし粂爺さんは自前の舟を持ち気ままに仕事をする。気に入らない仕事は幾ら船賃を出そうがしないという、頑固者なのだそうだ。

おまけに小柄で痩せっぽち。筋骨たくましい船頭が多い中、陽には焼けているがとても船頭にはみえない。

その粂爺さん、ふうん・・と喜市をじろじろ眺めまわして、源兄ぃに肯いた。

「がたいはよさそうだ」

「へい、無駄にでかいと言われてたんですがちょいと鍛えました。喜市と申しやす。よろしくお願えいたしやす」

と喜市は頭を下げた。

粂爺さんは懐から真新しい草鞋を取り出すと差し出した。

「あれに乗る時、履き替えな」

しゃくった顎の先に、磨かれて渋く光った猪牙舟が舫ってあった。

“今日は見てろ”と言われた喜市は、舳先の方に座って粂爺ぃの動きを観察した。

所々、馴染みの船宿があるようで、そこで客待ちをしたり、迎えを頼まれたり、きままに仕事をしているようでいて、実はしっかり顧客を持っていると見た。

行きつけらしい一善飯屋でも、昼時をほんの少しずらすだけで、ゆっくり食べられる。

粂爺ぃは寡黙だ。ぽつりぽつりとしか話さない。飯を食いながら“どうでえ”と聞いた。

「船が揺れねえ。よその舟とすれ違って横波喰らっても全く揺れねえ。それに桟橋や杭や石垣にぶつかるどころか、かすりもしねえ」

喜市がそう言うと、粂爺いが鼻でかすかに笑った。


驚いたのは仕事の後の舟の手入れだ。まだ陽のある内に、水道橋手前のちょっと広くなっている川岸に舟を寄せると、川の中から突き出た杭に舫いをかけ、桟橋とはとても見えない板切れにひょいと飛び降りた。

土手に上がる板階段の脇に掘っ建て小屋があり、爺さん、その中から桶を持って出てきた。中には藁を束ねた物や縄を巻いた物、ぼろきれ等が入っている。

舟底に引いてあった茣蓙はゴミを払って小屋の屋根で干す。それから船底に這いつくばって内側を、船を岸へ引っ張り上げて裏側を、傷一つ、虫一匹見逃さない勢いで磨き上げるのだ。

「こいつが俺っちの全財産で、飯のタネだからよ」

呟くようにそう言うと、

「明日は早え。五つには出発する、起きられたら来い」

とさっさと小屋に戻ろうとする。

ここが物置ではなく、爺さんの家というか巣だったかと気がついた。

「あ・あの飯は?」

「朝炊いたのが残ってる、酒もあるから心配いらねえ」

爺さん、喜市を拒むようにがたがたと戸の代わりの板を立ててしまった。

春になったとはいえ、まだ底冷えのする季節、吹きっ晒しの小屋で寒くはないのかと思ったが、まだ遠慮がある。

「ありがとうございました。明日またよろしくお願えしやす」

声をかけて、土手に上がった。


翌朝、粂爺ぃは味噌のいい香りに目が覚めた。

小屋から首を出してみると、船からも小屋からも離れた岸辺に小さな焚火があり、傍らで喜市が木の枝に突き刺した餅を焼いていた。

「お早うございやす。遅れちゃならねえと思って早めに来たら寒くって。門前町の茶屋で餅が余ったってえから小腹が減ったら一緒に食おうと持ってきたんですが、朝飯代わりにどうですか?味噌塗って焼いたら結構いけやす」

焚火が、小屋や舟よりも風下の水際であるのを確認すると、粂爺ぃ冷たい川水で顔を洗い口を漱いでから焚火に寄ってきた。

「いい匂いだ、一つもらおう」

朝一の仕事は、板橋まで行って生花とそれを届ける若い娘を運ぶことだった、

「いつもの順番でいいのかい?お涼ちゃん」

粂爺ぃにしては優しい聞き方だが、喜市はそっぽを向いていた。お圭より一つか二つ年上だろう、若い娘の匂いや物腰が痛かった。

「あ、今日から”山善“さんにもお届けすることになって、えーと順番からすると・・」

「一番が“越乃家”次が”平清“で、”山善“に寄って、“常葉楼” ”風舞“か」

どれも喜市でも知っている、名の通った料理屋や船宿だ。

「“山善”さん、初めてなんで、ちょっと時がかかるかもしれません。ご挨拶やら何やら」

そう言いながら、お涼は舟一杯に積んだ大量の生花を手際よく分けていく。見ていると、花だけではなく、若松や喜市の知らない木の枝や竹、葉っぱなども沢山ある。それらをああでもない、こうでもないと思案しながら分けていく。

一軒目の“腰乃家”。花を運んでやれと粂爺ぃに言われて、蓆に包んだ大きな花の束を井戸端に運ぶ。お涼が挨拶をすませてやってくると、女中や仲居が沢山の手桶を持ってきた。

花を分けるのだなと思った喜市は、黙って水を汲み、手桶に移す。

お涼は荷を広げ、腰に下げた巾着から小さな火皿と竹筒に入った油を出して火芯に火をつけた。そして、よく切れる鋏で切った花の切り口を火で炙ってから手桶に分けていく。

「水揚げがよくなるんです」

恥かしそうに俯いたまま、お涼が言った、

喜市は聞こえなかったふりをして、切り屑を集めるため、箒と塵取りを取りに行った。

二軒目、三軒目、ここでは確かに少し手間取った。手桶が足りなくて、大きな盥が持ち出されてきたからだった。

全ての花を配り終えたときには、昼八つを大きく過ぎていた。

「いつものお蕎麦屋さんでいいかしら?」

お涼が聞く。

「ああ、あっしのことならご心配なく。まだ見習いなんで、飯は勝手に食ってきまさあ」

「こいつの分は・・」

横から粂爺ぃが口を挟んだ。

「あっしが払いやす。まだ修業中なんで、師匠のあっしが払うのが筋ってもんで・・」

「でも・・」

お涼は不服そうだったが、喜市は一度もお涼と目を合わさなかった。


お涼を板橋まで送っての帰り道、

「花ぁ届けるなぁ一と六のつく日だ。夏場は一と四と八のつく日になる」

「へい」

喜市が無口になってしまったので、粂爺ぃがポツリポツリと語った。

「あの娘の爺様が季節よりほんの少し早く咲く花を作ってるらしい。双親はいねえようだが、あの子の兄貴が花づくりを手伝ってるそうだ」

「へい」

「振られた女でも思い出したか?」

「いえ」

「死んだのか?」

「いえ」

「生きてんならいいじゃねえか。明日ぁ神田まで迎えに行ってやる。六つ半だ」

喜市は黙って頭を下げた。


帰り道、柳原の土手まで足を延ばして、まだ店仕舞いしていない古着屋で、赤い手拭を買った。お圭が頭を包んでいたような赤い手拭いが欲しかった。

赤い手拭を首に巻くと、何だか少し元気が出たような気がした。

次の日、喜市は粂爺ぃに”喜の字組“のこと、そのために江戸の川や掘割をできるだけ沢山、土手ではなく川の方から見てみたいのだと打ち明けた。

「船頭になろうってんじゃねえんだな」

ちょっとがっかりしたように、粂爺ぃは溜息をついたが、それなりの顧客やお涼のような定期的に利用する客の合間に、あちこちの川やら堀を案内してくれた。

苔むして今崩れてもおかしくない石垣や、ゆるみきった護岸など、あちこちに補修しなければならない個所がいくつもあった。

とはいえ、幕府も内情は苦しいようで、大掛かりな補修はできず、小手先の手直しを細々と行っているにすぎない。

日本橋から南へ下った桟橋で、粂爺ぃが煙草を吸う間、喜市は竿を掴んだまま見るともなく品川の空を眺めて立っていた。

どんぶり腹掛けに観音屋の腰切り半纏、その裾を櫓漕ぎの邪魔にならないよう腰帯できりりと締め、股引に草鞋履き、首に赤い手拭を巻いている。

ちょっと鯔背に見えたのか、通りかかった娘たちが立ち止まって見惚れ、それに気付いた旅装の絵師がちょちょいと書き留めた。

燕がすいと横切った。


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