希望の歌

増田朋美

希望の歌

暖かくて、もう春も近いなあと思われるようなそんな日であった。そんなわけだから、公園で遊んでいる子どもたちの姿も多い。その中には立派な服を着た子どもたちもいる。そうか、今日は、学校が卒業式で、みんな喜んでいるのか、とすぐに分かるのだった。

子どもたちが、学校から嬉しそうに帰っていくのを、浜島咲は、嫌そうな顔で眺めていた。本当は、子どもたちなんていなければいいのにと思ってしまう。でも、学校の先生は、咲たちが演奏してくれるのを楽しみにしている、と言っていたっけ。それでは、あたしはどうしたらいいのかな。と、咲は困ってしまうのであった。

まあ、いつまでも悩んでいてもしょうがないのであるが、でも、師匠である苑子さんのこだわりも、わからないわけではない。なんとかしなくちゃ、と咲は思った。とりあえず、学校を出て、咲は、トボトボとあるき出した。

一方製鉄所では、いつもどおり、杉ちゃんが水穂さんに、ご飯であるニョッキを食べさせようとしているところだった。ほら食べろと水穂さんに杉ちゃんが、ニョッキを食べるように促していると、

「杉ちゃん、ちょっと聞いてほしいことがあるのよ。聞いてくれる?」

と、玄関先で声がした。誰だろうと思ったら、浜島咲であった。

「ああ、いいよ。入れ。」

と、杉ちゃんが言うと、咲は、入るわねと言って、製鉄所の建物内に入り、靴を段差のない土間に置いて、四畳半に行った。

「どうしたんですか?なにかありましたか?」

と、水穂さんがそう言うと、

「実はねえ。あたしの、大学時代の友達で、小学校の音楽の先生をしている人がいてさ。」

と、咲はため息をついて話し始めた。

「その友達と、昨日半年ぶりに会って、あたしが、今苑子さんのお琴教室で働いていると行ったら、それでは、ぜひ、入学式で、お琴を演奏してくれって頼まれちゃったのよ。」

ここまでは、よくある話だ。お琴と言うのは、珍しい楽器だから、弾いてくれと頼まれることは、よくある。

「それでどうしたんですか。引き受けたんですか?」

水穂さんがそうきくと、

「はい。そうなのよ。苑子さんに電話したら、引き受けてくれた。でも、問題はここからよ。苑子さんたら、入学式で六段の調べを演奏するっていい出して。六段の調べの楽譜を入手しようにも、苑子さんが、博信堂でなければ、絶対に演奏しないって言うから。そんなものどこに売っているっていうの。もう、どうしたらいいのか、私もわからないわ。」

と咲は、嫌そうな顔をしていった。

「そうですね。確かに、お琴屋さんに行っても、博信堂さんの楽譜は、入手できないと聞きます。店の在庫だけが頼りなようですが、有名な曲ほど、入手できないんですよね。」

「そうよ。だから困っているんじゃないの。いろんな店に電話してみたんだけどさあ。もう、ナイナイナイの一点張りよ。どの店も、六段の調べの楽譜はどこにもないんですって。あーあ、あたしどうしたらいいのかしら。これじゃあ、六段の調べがいつまで経っても演奏できないわ。」

水穂さんの話に、咲は急いで言った。

「じゃあ、古本屋に言ってみたらどうだ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「通販サイトでも調べたわよ。でもどこにもなかったわよ。」

と咲が答える。

「じゃあ、ヤフーのオークションや、フリマアプリで出品されてませんか?」

水穂さんがそうきくと、

「それもなかったわ。」

咲は、またため息を付いた。

「まあ確かに、お琴教室で働いていたら、そういうことにはぶち当たるって言うけどさ、苑子さんも頑固だなとは思ったけど、山田流のちゃんとした演奏をしたいっていう気持ちもわからないわけじゃないから。それで困ったちゃったのよ。まさか楽譜がないからと言って、依頼を断るわけには行かないでしょ。あーあ、あたし、どうしたらいいのかな。」

「じゃあ、生田流の楽譜を貸して貰えば?」

と、杉ちゃんが言うと、

「あーあ、それはダメダメ。以前、お弟子さんの一人が、生田流の楽譜を持って来たけど、苑子さんは激怒なさいましたわ。それは偽物だって。山田流の本物じゃないって。」

と咲は言った。不思議なもので、日本の音楽というものは、明確な流派というものがある。お琴には、生田流と山田流というものがあって、その2つは、絶対に和解することなく、いがみ合っている。どちらも、自分たちのほうが正しいと言い合って、互いにお互いの流派の悪いところをつつきあっていて、一緒にやろうとかそういうことは殆ど無い。日本の音楽ということばかりではなく、他の分野でも同じようなことはあるようであって、華道や、茶道など日本の伝統作法には必ず流派というものはあるし、はたまた日本で始まった新興宗教なども、同じ様に流派があるようである。

「そうですね。確かに他流派の楽譜を持っていったら叱られるということは、お琴だけではなくピアノでもありますよ。僕も、ヘンレ版を持っていったら、叱られたことがあります。曲の情報が少なすぎるとか言われました。」

水穂さんがそういうのであるが、それとは、ちょっと意味が違っていた。

「まあ、そうかも知れないが、流派通りの曲をやりたいっていうのは、苑子さんみたいな、お教室をやっている人には、かねてからの願いじゃないのかな。まあ確かに、博信堂の本物を手に入れるのは難しいかもしれないけど。」

杉ちゃんが、そう言うと咲は、それができれば理想的なんだけどねえといった。

「どこにもないんだな。じゃあ、いっそのこと曲目を変更したらどう?誰か山田流の有能な作曲家の作品とか。六段の調べなんて、探したって無意味だと思うよ。そんなバカバカしいもの探して、演奏ができないなんて言ったら、余計に嫌われるだけだぜ。ほら、高野喜長とか、宮下秀冽とか。」

と、邦楽マニアの杉ちゃんが言った。

「ああそういえば、あの二人は、山田流出身ですね。」

水穂さんもそういった。

「だろ?僕も文化祭で聞いたことがあるが、高野喜長さんの花の歌とか、結構いい曲だぜ。それをやってみればいいじゃないか。」

と、杉ちゃんがそう提案すると、

「そうか。そうするしか無いか。まああの苑子さんをどこまで説得できるか疑問だけど、いずれにしても、六段の調べは見つからなかったわけだし、よし、わかった。あたし、高野喜長さんの曲を調べてみるわ。」

咲は、しっかり頷いた。

「よかった。杉ちゃんたちに話をしたから、すぐに答えが決まったわ。ありがとう。やっぱり、自分の中で悩んでいるより、人に話したほうが、気持ちがはれるわね。よし、もう一度頑張ってみよう。」

「そうそう三人よれば文殊の知恵さ。邦楽は、意外に動画サイトにもよく掲載されているから、そこで調べてみてもいいんじゃないかな?」

杉ちゃんに後打ちされて、咲はすっかりやる気になった。

「よし!ありがとう。あたし、高野喜長さんの曲を探してみる。」

「良かったですね、浜島さん。高野喜長さんの作品はやりがいもあると聞きますし、お弟子さんたちも喜ぶと思います。」

水穂さんがそう言うと、

「右城くんこそ、体をもうちょっと良くしようと思ってね。ちゃんと食べるものは食べないとだめよ。」

と咲は、負け惜しみを忘れなかった。

とりあえずその日は、杉ちゃんたちと雑談をして、家に帰った。家に帰り、パソコンを立ち上げて、動画サイトを調べてみる。検索欄に高野喜長と入れて見ると、結構他の社中が演奏している映像が出てきた。花の歌、流れのほとり、琴と尺八による壱越調、など高野喜長さんの作品は、結構技巧的なものが多そうだ。それでも、西洋音楽の調性を取り入れながら、日本音楽を発展させていこうという願いが感じられる曲が多かった。咲は、この曲が良いのではないかと思った。学生には、もってこいだと思ったのだ。高野喜長さんの希望の歌。かなりお琴は技巧的だが、でもやりがいもありそうだ。調性は、乃木調子。西洋の調性で言えばイ長調。イ長調といえば、開放的で明るい調性でもある。

「よし。この曲にしよう。入学式とか卒業式にはぴったりね。」

咲は、お琴屋さんへ電話して、希望の歌という曲がほしいといった。お琴屋さんは、希望の歌なら人気がある曲なので、すぐに入荷できますよと言ってくれた。お教室へお届けしましょうかと言われたので、咲はお願いしますといった。ああ良かった。これで、六段の調べに変わる曲が見つかった。咲はやっと力が抜けたのであった。

翌日。咲はいつもどおり、苑子さんのお琴教室に出勤した。お琴屋さんは、9時に届けてくれると言っていた。咲がお教室に入ると、苑子さんは、お琴を準備して待っていた。

「おはようございます。」

と咲が苑子さんに言うと、

「おはようございます。咲さん、六段の調べの楽譜は見つかった?」

と苑子さんは、当たり前の様に言った。咲はすぐに、

「見つかりませんでした。」

と答えた。苑子さんは、嫌そうな顔をする。

「ご安心ください。その代わりの曲を探して参りました。きっと、学校の入学式にふさわしい曲だと思います。」

咲がそう言うと、

「どういう曲よ。古典箏曲に入るもの?」

と、苑子さんは言った。

「いえ、古典箏曲ではありません。高野喜長さんの希望の歌です。」

咲がそう答えると、

「高野喜長の希望の歌!」

苑子さんは、強く言った。

「それでは、古典箏曲ではなくなってしまうじゃないの!」

「でも、古典箏曲はどこへ行っても手に入りませんよ。私、三軒くらいお琴屋さんを回りましたが、どこにもありませんでした。みんな、博信堂は一冊も無いそうです。みんな在庫が切れてしまって、もう売っていないということでした。でも、高野喜長さんの楽譜なら、すぐ手に入るそうです。だから、私、すぐに購入しました。今日持ってきてくれるそうですよ。」

咲は、できるだけ感情的にならずに、苑子さんに状況を説明した。苑子さんがなんでそんなに高野喜長さんの作品を嫌うのか、よくわからなかった。でも、事実は事実として伝えなければならないと思った。

「何を言っているの?あの人は、異端児よ。邦楽界の。だから、古典箏曲にはかなわないのよ。」

苑子さんはそう言うが、咲にはただ、高野喜長さんという作曲家が嫌いで、古典箏曲しか、山田流箏曲として価値がないと言っているだけに過ぎないと見えた。

「そういう人の作品を、人前で演奏するなんて。私たちは、そこいらにあるお琴教室とは違うのよ。お琴は、ああいう西洋音楽をやるようにはできてないわ。」

そういう苑子さんに咲は、

「でも、動画サイトには、ちゃんと高野喜長さんの作品を演奏した動画がありました。なんでそんなに古典箏曲ではないと嫌なんですか?」

と彼女に聞いてみる。

「だって、ああいう人の作品は古典箏曲ではなくなってしまうのよ。古典箏曲は、素晴らしいから伝承されてきているんでしょ。それを途絶えさせては行けないのよ。それでは、高野喜長なんて、そういう作曲家の作品を、演奏することは、古典箏曲をバカにすることになるのよ。」

「苑子さんの言うことは、現実的ではありません。だって、事実、六段の調べは入手できないじゃないですか。他の古典箏曲だって、出版社の博信堂はとっくに廃業しているんだし、もう手に入りませんよ!それは、いくら努力したってだめなんです。それなら、他の曲をやったほうがいいのではありませんか?きっと高野喜長さんの作品をやったからと言って、山田流を潰すことにはなりませんよ!それよりも、そういう今の世の中に残ってくれている作品を演奏して、山田流が残っていくようにすることのほうが、大切なのではありませんか!」

咲は、どうして苑子さんにこういうことを言わなければ行けないのか、よくわからないなと思いながら、一生懸命言った。

「そうかも知れないけど、そのためには、本物を残していくことが、必要なのよ。」

と、苑子さんも言い返す。其の言い方は、本当にきつくて、咲はできることなら、こんな修羅場、早く出ていきたいと思ってしまうのであった。

「そうですが、このままだと、入学式で演奏できる曲がどこにもありませんよ!」

咲は、苑子さんに、ムキになってそう言葉を返した。

「おはようございます。曽根田楽器店です。」

がちゃんとドアを開けて、お琴屋のおじさんが入ってきた。

「浜島さん。昨日オーダーしてくれた、高野喜長さんの希望の歌、持ってきましたよ。えーとねえ、お値段は一冊、550円ですから。よろしくおねがいします。」

おじさんは、希望の歌と書かれた楽譜の表紙を見せた。咲は、苑子さんが何を言おうと、希望の歌を買ってしまおうと思いつき、

「はい、じゃあ、550円、支払います。」

と、おじさんに言って、其の値段を支払った。

「はい、まいどありがとうございます。それにしても、咲さんも大変ですね。まあ、山田流はどこでも同じですよね。古典箏曲が入手できなくなっちゃったんだから。」

と、お琴屋のおじさんは領収書をかきながら言った。

「ええ。あたしたちも困ってるわ。ちょっと、古典箏曲が弾けないのは、困るわねえ。」

咲が急いでそう言うと、

「でも、山田流のために、曲を提供してくれている作曲家の人も増えているようですよ。それは逆に、お琴で新しい音楽をやっていくための、チャンスと言えるかもしれないですね。高野さんもそうだと思うんですが、古くからある流派の場合、まずそっちを維持しなきゃなりませんからな。山田流の場合、それがない。そうなると自由でいいじゃないですか。うん。これからも頑張ってください。」

お琴屋のおじさんは、にこやかに言った。確かに、そうなのかもしれなかった。咲も、そう思っている。咲はもともと西洋音楽をやっていたから、音楽というものは自由でいいと思っていた。ショパンやシューマンも、そういうことに基づいて、音楽を作った。西洋の音楽は、人間の感情を自由に表現できる。それがすごいところだと思っている。

「はい、ありがとうございます。おじさんも、楽譜をありがとう。また、必要になったらいいますね。」

咲は、そう言って、お琴屋さんに頭を下げた。お琴屋さんは、次に回らなければならない社中があるから帰りますと言って、お教室を出ていった。

「さあ苑子さん、これをお弟子さんたちに配りましょう。これからは、古典箏曲はやめて、高野喜長さんの作品を演奏するようにしましょう。」

と、咲は苑子さんに楽譜を見せた。苑子さんは、もしかして怒りのあまり楽譜を破ってしまうのではないかと思われたが、其のようなことはしないで、にこやかに笑った。

「わかりました。浜島さんが、そうやって、お琴教室のためになんとかしようと思ってくれているんだったら、それをやりましょう。」

咲は思わず、え、といった。

「苑子さん、わかってくれるんですか?」

咲は思わず聞くと、

「ええ。確かに無いものは無いということはわかるし。ただ、一つだけ条件があるわ。」

と、苑子さんは言う。

「条件って?」

咲が思わず言うと、

「曲は確かに、希望の歌をやろうということだけど、お琴を弾くときの伝統衣装は変えたくありません。本番は、色無地と、松の名古屋帯よ。全員、其の着物を用意できるように、浜島さんも、それを呼びかけてね。」

と、苑子さんは言った。確かに、着物はお教室に来ている生徒さんが皆持っている。だけど、色無地という着物は、柄を入れないで、黒あるいは白以外の一色で染めたきものである。柄のある着物はまだお弟子さんたちは欲しがるが、色無地という着物は、誰も用意する気が無いことは咲も知っていた。これでは、余計に、咲はお弟子さんたちと対立しなければならなくなるではないかと思った。

「確かに、着物は、リサイクルでも用意できますが、色無地というのは難しいし、名古屋帯の松を入手させるというのも、ちょっと大変なのでは、、、。」

と咲はいいかけたが、苑子さんの決断は変わらないようであった。そういうところも妥協しないのが苑子さんであるのかもしれなかった。

「じゃあ、10時に最初のお弟子さんが来るから、それを彼女たちに伝えましょう。曲は、高野喜長さんの希望の歌。そして、色無地の着物で、松柄の名古屋帯を用意するようにと。」

その辺は苑子さんに任せますということができないのが、咲と苑子さんの二人の師弟関係であった。それに、希望の歌をやろうと言い出したのは咲であり、責任は取らなければならない。それは、苑子さんの頑固ぶりを解消するどころか、更に悪化させてしまったような気がする。

「わかりました。私からも、お弟子さんに、お願いしておきます。」

咲は、苑子さんにとりあえずそういった。其の日も時間になって、お弟子さんは、来てくれた。確かに来てくれたのであるが、苑子さんのいう色無地を着るようにと言って喜んだ人は一人もいなかった。色無地なんて、柄がまったくない、つまらない着物ではないか、そう文句をいう人ばかりだった。おまけに松の帯なんて、他に格が高すぎて使い道が無いじゃないかと文句を言った人もいる。お弟子さんは、文句が言えるからいい。でも、咲は、素直に苑子さんに、やめようよと言うことはできない。それは、お琴教室のルールでもある。

本日のお弟子さん全員に、希望の歌をやることと、色無地を着て、松の名古屋帯を占めるようにと指示を出したが、素直にわかってくれたお弟子さんは誰もいなかった。みんな色無地なんて嫌だ!という顔をしていた。

「大丈夫、お琴教室は昔から、色無地を着ることが推奨されていたのよ。それを、ちゃんと言えば、お弟子さんたちには伝わるわ。」

苑子さんにそんなことを言われて咲は、それは昔の話でしょ、今は時代が違うんですよ、といいたかったが、年配の苑子さんには、それはわかってもらえないかなと思ってやめておいた。それよりも、希望の歌という楽曲が、やっと自分たちも演奏できるということに喜びを持ちたいと思ったのだった。


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希望の歌 増田朋美 @masubuchi4996

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