07 夏休み

 八月の中ごろにあるお盆の時期が過ぎてしまうと、いよいよ夏休みは終盤を迎える。

 事前に将来を見据えられない計画性のない人間は、まるで手を付けていない宿題の山を前にして焦りを覚え始める時期だ。

 実を言えば私もそんな一人だったが、机の上に積んでいた宿題は遠くへ追いやって、一枚のチケットを握りしめて家を出た。

 握手券。

 それは大好きなアイドルと握手ができるなんていう、世にも素晴らしいイベントの入場券である。


「ドキドキしてきた……。緊張のせいか手汗がひどい……」


「きちんと拭いておきなさいな。ほら、ハンカチ」


「ありがとう。あーあ、冬にやってくれれば汗なんか気にせずにすんだのに……」


「そうかしら? あなたのことだから冬でも手汗はすごかったんじゃない?」


「えっとぉ……うん。あんまり強く否定できないから考えるのはやめるね」


「はいはい」


 藤川さんに適当にあしらわれて、まぁ普段の私なら落ち込んでいたことだろう。

 でも今日の私は朝からテンションが高いので、いちいち落ち込んでいる余裕がない。


「握手会って何をするのかな?」


「手を握るのよ」


「あ、なるほど。握手会だもんね……って、いや、それくらい私でもわかるよ」


 もしかして私、ちょっと馬鹿だと思われてるのかな……。


「簡単に言葉を交わすくらいの時間はあるんじゃない?」


「簡単にって、どれくらい? 挨拶しておしまい?」


「確かなことは言えないわ。なにしろアイドル好きを隠していただけあって、こうして握手会に参加するのも初めてなのよね。だから私にも実際の感じがわからないけれど……伝えたいことがあるなら手短に、ね?」


 一人一人に制限時間があるから、と藤川さん。

 なるほど。確かに、決められた時間を過ぎても動かないでいるファンが係の人に引きはがされる映像を見たことがある。私もそうならないためには、今のうちに伝える言葉を考えておいたほうがよさそうだ。


「ファンです、いつも応援してます! って、たぶんみんな言うよね……」


「みんなが言うからって、同じようにあなたが言っちゃ駄目というわけでもないでしょう? 伝えておきたいなら伝えておくべきよ。ファンなのも応援してるのも事実なんだから」


「そっかぁ。別に私のことを覚えてほしいわけじゃないから、無理して奇をてらう必要はないもんね」


「そういうこと」


 さすが藤川さん。落ち着いている。推しのアイドルの手を握れることに浮かれていて、舞い上がりつつある私とは正反対だ。

 朝の待ち合わせ場所に万全を期して十五分も早く来た私より先に到着していたから、冷静に見える彼女も今日の握手会を楽しみにしているのは間違いないけど。

 なんだかうずうずしてきた。


「ね、ね、ね! ちょっといい?」


「なによ?」


「握手の練習しない?」


「しない」


「しようよ」


「あのね……握手の練習って何?」


「手を握るのよ」


「……私の真似をした?」


「してないしてない。ちょっと冷たい感じに声を低くしただけ」


「それをしたって言うのよ」


「言うのかぁ……」


 実際していたんだけど。ケンカになるから言わないでおこう。彼女は意外と自分がどう見られているのかを非常に気にするタイプなのだ。

 それから数分後。

 ふと気になったことがあり、つんつんと肩をつついた私は藤川さんに尋ねる。


「そういえば藤川さんはこの列でいいの?」


「ええ、そうよ。私の”推し”は今回ここに来ていなくって」


「そっか」


 すっかり忘れていたけれど、そういえばそんなことを言っていた気がする。

 彼女が一番好きなのは、同じグループでも長身でクールな大人びたメンバーだ。小柄でキュートであどけない私が好きなメンバーとはかなり対照的だから、推しとまでは言わないけれど意識している。

 ついでだからと頭の中で二人を隣同士に並べてみる。ふむ、なんだかお互いの特徴を引き立て合ってくれるような気がする。あんまり関わり合いがない二人だけれど、ひょっとしたら意外にベストな組み合わせなんじゃないだろうか。

 素晴らしい。たまにでいいから仲良くしてくれないかな。

 いつの日か二人がメインのポスターとかカレンダーとか発売されたら二つ買って、一つは藤川さんにプレゼントしちゃおう。わざわざ握手会について来てくれたお礼とか言えば、きっと受け取ってくれるに違いない。


「……あれ? だとすると、自分の好きな子が来てないのに握手会までついてきてくれたの?」


 不意に浮かんだ疑問を呈すると藤川さんはちょっとしどろもどろになった。


「それは、まぁ、別にあれよ、あなたの推しの子だって私も好きなのよ」


「あーなるほど。すっごく人気だもんね。私調べによると、今一番人気急上昇中だから」


 全く根拠はないけど、そんな感じがすごくする。

 握手会の待機列だって他の子と同じくらい長いし、たぶん間違いない。デマでもフェイクニュースでもなく、脳内ファクトチェックをした結果として最近どんどんファンが増えてきているのだ。具体的には特にデータがないものの、ほぼ確実にそう感じる。そのうちグループ全体でもトップスリーに入っちゃうんじゃないだろうかという私の希望的観測は近いうちに現実になってほしいけれど、こればかりはどうだろうか。

 そんなことを考えていたら、くいっと袖を引っ張ってきた藤川さんが私に顔を向けてはっきりと言う。


「あなたと一緒に来たかったというのもあるけど」


「……素直にそんなこと言われて私びっくりしてる!」


「うるさいわね。そりゃ素直にもなるわよ。だってこれを逃せば夏休みにあなたと出かけるイベントもなくなるのよ? 夏祭りに花火大会、海にもプールにもキャンプにも、とにかくどこにも遊びに行けないんだから」


 せっかく同じアイドルが好きなのに……と不満そうな藤川さん。

 同意した私は思わず彼女の袖をくいっと引っ張り返した。


「愛と雪もCDを買っていれば握手券が手に入って、今日は私たちと一緒に来られたのにね」


「だけど熱心なファンでもないのに、電車を乗り継いで握手会までついてきてくれたかしら? ……くれたでしょうね、誘えば彼女たちなら。私が三枚買っておくんだった」


「今まで一度も参加したことがなかったから、握手会なんてイベントがあることを直前まで忘れていたのが悔やまれる……」


「本当にそう」


 そんなこんなで時間をつぶしていると、ついに私の順番がめぐってきた。

 ずっと応援してきた私の大好きなアイドルが私の前に立っていて、私が近づいてくるのを笑顔で待っている。

 なんだかまぶしくて心臓が張り裂けそうだ。

 一世一代の告白に向かう乙女の心境。


「ほら」


 と言って藤川さんに背を押された。

 ぎこちない歩みで彼女のすぐ目の前まで行って、差し出された手を両手で握る。

 やわらかい。あったかい。顔が近い。

 ごくりと生唾を飲み込んだ私は精一杯に声を振り絞った。


「応援してます、大好きです!」


「ありがとう!」


 そう言ってもらえたから私は幸せと興奮に包まれて、その後のことをよく覚えていない。

 帰りの電車の中で、私はぼーっと自分の手を見つめていた。


「まさかもう手は洗わないとかベタなこと言い出さないでしょうね?」


「そんなこと言わないけど……」


 どこまで本気かはともかく、本当は言いそうになっていたので我慢して言葉を飲み込んだ。

 ちらっと横を見ると、何を考えているのやら藤川さんも自分の手を眺めている。

 余計なことを言うのはやめておこうと思った。

 待ち合わせの場所にしていた最初の駅に戻ったころには、もう夕暮れで、人通りもまばらに見える街は薄明かりに陰っていた。

 ここから家まで、いっそ帰り道の途中まででいいから、このまま藤川さんと一緒に歩きたい。そう強烈に思えてきたけれど、街の中を二人並んで歩くわけにはいかない。握手会の会場は遠いおかげもあって私たちの知り合いも少なかったろうし、万が一にも知り合いと顔を合わせたところで会場にいるのは同じファン同士、いくらでも言いくるめられたに違いない。

 だけど友人や知人の多いであろう地元ではそう都合よくいかない。こうして駅で二人一緒にいるだけでも危険なのだ。

 いつ、どこで、誰が私たちの姿を目撃するかわからない。

 けれど私たちはなかなか別れる気になれなかった。

 一分ごと、一秒ごとに、明日を夢見て街は眠るように光度を落としていく。

 このまま完全に暗くなってしまえば、私たちが一緒に歩いたところで誰にも気づかれないだろうか。

 いや、そんなことはない。街灯や車のライトなどがある限り、私たちの姿は夜の闇の中でも否応なく浮かび上がる。可能性だけの話をするなら、このまま駅で別れて、一人ずつ別々に帰るしかないだろう。

 肩を寄せ合うように二人で座っていたベンチを立ち上がって藤川さんが言った。


「今日は楽しかったわ」


 それにつられて私も立ち上がって答える。


「うん、私だって楽しかった」


 それを聞いた彼女は柔らかく微笑んで、改めて言った。


「私は本当に楽しかったの」


 それじゃあね、と言って彼女は身を翻す。

 少しずつ少しずつ藤川さんの背が遠ざかっていく。

 本当はもっと一緒にいたいのに、そうはさせない時間や状況がもどかしい。

 手に熱が残っている私は思わず右手を大きく振り上げて、どうしようもなく心が震えたくなって叫んだ。


「ミッチー! また明日!」


 瞬間、彼女は足を止めて振り返った。


「もちろんよ、ゆかり! また明日会いましょう!」


 それからの日々、私たちは本当の親友になれた気がする。

 だから、たまにはこういう夏の終わり方もいいかもしれない。

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