06 一学期の終わりごろ
二週間後の放課後、水曜日の忘れがたい日課として地学室に入った私は解放感で満たされていた。
思わず快哉を叫びたくなる。
「人生って素晴らしい!」
無視されてもしょうがないかと思っていたけれど、これにはすぐ反応がくる。
「その年齢で気づけたのなら大したものよ。人生にケチをつけたがる人間ばかりの世界において、あなたは貴重な存在だわ」
褒めているのか、皮肉なのか、あるいは単純にあきれているのだろうか。
あーはいはいと適当にも聞こえる口調で藤川さんはそう言った。
いつもの場所に荷物を置いて、ぱっと着替えを済ませた私は振り返って一言。
「なんで私がこんなにも晴れ晴れしい気持ちでいられるか知りたい?」
「知ってどうなるというの?」
「私と同じ気持ちになれるかもしれない」
「なるかしら? 言ってみて」
「わかった」
ご期待に応えようと、私はのどの調子を整えてから大声を張り上げる。
えー、こほんこほん。それではよく聞いてください。
「期末テスト、全教科ばっちり平均点越えました!」
あんまり浮かれすぎるのも恥ずかしいから、笑顔はやや控えめにした片手だけのピースサイン。
それでもこの喜びは伝わったはずだ。
「ふーん」
なのに反応が薄い。おかしい。
「それより愛、このお菓子食べる?」
「食べる食べる。ありがとー、藤川さん」
「あ、私にもちょうだい」
「もちろんよ。はい、雪」
私をほったらかしにして、公園のベンチみたいに椅子を並べて座っている三人がいちゃいちゃしている。これもおかしい。私も食べたい。
立ったまま近づいて、ちょうだいと両手を出して欲しがったらくれた。
チョコでコーティングされたスティック菓子をポリポリ食べていると、二本目を渡してくれながら藤川さんが言った。
「お疲れ様」
さりげない感じだし、素っ気ないし、だけど本気で言ってくれているのが伝わってくる。
思わずジーンと胸にきた。
「その言葉が一番嬉しかったかも。どんなに頑張っても平均点を越えたくらいじゃ、先生も親も他の友達も褒めてくれなくって」
「それだけ期待されてるってことかもしれないでしょ? いい機会だから、もっと上を目指したら?」
「上ね……。藤川さんはどうだったの?」
「秘密。自分で言うと嫌味になるもの」
「なんかそれ成績がいい人の言葉だなぁ……。そんな感じするけど」
藤川さんは授業でも先生に当てられたところを完璧に答えるし、居眠りも遅刻もしなければ、うっかり宿題を忘れて怒られているところを見たこともない。どうせテストもうまくやっているのだろう。
いつも対立をあおられて何かと比較されがちな私たちではあったけれど、あまり学力で優劣を比べられた記憶はない。なんでだろうと不思議に思っていたけれど、これはもしかして差がありすぎて勝負にならないからだったのか。
だとしたら実はみんな優しい。私は気を遣われていた。
「ともかく、これで夏休み前の懸念はすべて払拭されたよ」
この一学期、振り返ってみればいいこと尽くめだ。何よりこうして藤川さんと友達になれたことが最高の出来事であることは異論の余地がない。私たちのマニフェスト・デスティニーだ。
しみじみ感慨にふけっていた私を見て思うところがあったのか、何かを思い出したらしい藤川さん。
そういえば……と話を切り出した。
「実は私も懸念を一つ解消してきたんだけど、聞いてくれる?」
しゃべりたがりの私ならばともかく、どちらかといえば聞き役になることが多かった藤川さんのほうから聞いてほしい話があるなんてめずらしい。
当然、こくりと頷いた。
自分から聞いてほしがっている割には言いにくそうにして、やや視線を下げた藤川さんは小声になる。
「クラスの男子……。あの、例のオタク男子たちとのことなんだけどね?」
「ああ、例の。あれからも、たびたび女子に嫌がらせしていたみたいだね。相手にされてなかったけれど」
ということは、また何か彼らと女子の間で言い争いでも発生したんだろうか。
同じクラスである私は何かあったことさえ知らないから、どこか教室の外で衝突したのかも。
「そうじゃなくってね? 夏休みの前にけじめをつけようと思って、一人ずつ呼び出したの」
と、とんでもないことを言う。
びっくりした私は思わず尋ね返した。
「え、一人ずつ呼び出したの?」
「そう。体育館裏に」
「それはすごいことをしたね。相手も驚いたんじゃない?」
事情も知らずに呼び出されたというオタク男子たちの気持ちを考えると、同情せずにはいられない。
彼らはいろいろな意味で緊張していたに違いない。
のこのこ出向いていった先でクラスの女子に囲まれ、きつく折檻されるのではないか……と。
「驚いていたというか、驚かされたというか……」
かわいらしく小首をかしげて彼女は言う。
「意外にもすんなり許してくれたのよね、彼ら。むしろ自分のほうが悪かったとかまで言ってくれるし」
へー、と相槌を打ちそうになって私は彼女の話を遮る。
「ちょっと待って、許してくれたって? それってつまり、藤川さんは男子を一人ずつ呼び出して謝ったってこと?」
「そうだけど、何か変?」
「変じゃないけど……」
しかしまさか彼女がそんなことをするとは。あの藤川さんが男子に謝罪?
椅子を置いて藤川さんのそばに座った私は三本目のお菓子に手を伸ばしながら言う。
「それにさぁ、そんなことされたら、そりゃ彼らは許すよ。許すしかないと思うし……」
そうだ。きっと許すしかない。なにしろクラスの一軍女子を率いている藤川さんが直々に謝罪してくれたのだ。たとえ本心では許せなかったとしても、気に食わないからと言って彼女の謝罪を突っぱねることはできないだろう。
もちろん、ただ純粋に彼らがこれまでの自分たちの言動を反省した可能性もあるだろう。
それに、一応はクラスどころか学校でも人気の藤川さんに呼び出されて面と向かって謝られれば、まぁ私だって嬉しいし許しちゃう。好きになっちゃう。
でも、それより相手はビビっちゃったんじゃないだろうか……。許さなかったら報復されるとか、悪評が立つとか、金銭の要求をされるとか、そんな感じで何か裏があると恐れていたりして。
そんなこと考えもしないのか、達成感にあふれているらしい藤川さんは胸を張る。
「アイドルに限った話ではないけれど、何かを好きというだけで誰かを馬鹿にしたりされたりってのはおかしいわ。彼らのことを好きか嫌いかは別として、そのことで軽蔑するのは間違っているもの」
「それはそうだけど……」
「とにかく、これで気になっていたことの一つはなくなったんだし、これからの練習にますます身が入るってものよ。あなたも誰かに対して気に病んでいることがあれば、私を見習うことね」
「…‥うん」
満足そうにしている彼女に対して余計なことを言うのはやめておこう。
実情はどうあれ、ともかくこれで彼らと藤川さんの間にあるわだかまりは消えたのだ。
もう一学期も終盤。目の前に迫っている長期休暇を精一杯に楽しむためにも、気持ちよく夏休みを迎えることには私も賛成だ。わざわざ水を差す意味はない。
どことなく能天気に思われている感じもする私にだって気に病んでいることが一切ないと言えば嘘になるけれど、今の浮かれ調子な藤川さんに言っても、きっと真面目には相手にされないだろうから。
夏休みに入ると、私たちの活動をどうするかでひと悶着あった。
月曜から金曜までの昼休みと水曜日の放課後に地学室で練習をするのは、あくまでも学校がある一学期の話。わざわざ予定を合わせなくても自然とみんなが集まっていたから可能だったことだ。
ただ、予定がなければ学校に行く必要がない夏休みは事情が異なる。
まずは同じ場所、同じ時間に集まらなければならないのだ。
良くも悪くも夏休みは長いから、ひとまず部活の時間さえ避ければ、いくらでも自由に時間を作ることはできる。けれど、問題は練習をする場所にあった。
文化祭でやると決めたアイドルライブを後腐れなく成功させるためにも、私たちは四人で仲良く一緒にいるところを他の人に見られてはならないのである。部活や委員会の活動で使うわけでもないので正式な使用許可を得られず、今まで使っていた地学室をはじめとする学校の施設が自由に使えないとなると、みんなが集まる練習場所をどこにするかで悩んだ。
お金がかかる場所を借りるのは経済的に厳しいし、無料で利用できる公園や空き地などでは知り合いに遭遇する危険性がある。かといって私や藤川さんの家で練習するのも難しい。いつかは近所の人に見つかって、お互いの家に行き来するほど仲がいいと噂になるだろう。
そこで残る候補は愛と雪、どちらかの家ということになった。
夏休みだから遊びに来るなら大歓迎だけど……、という愛は家族とのアパート暮らしで、とてもじゃないが四人で集まって練習する場所はないという。ダンスには不向きな狭さもあるが、まずは何よりもご近所さんとの騒音トラブルは避けねばなるまい。
一方の雪は豪邸というほどではないものの庭付きの一軒家暮らしで、ちょっと片付ければ屋内にも屋外にもダンスの練習ができるスペースがあるらしい。しかも彼女は兄弟姉妹のいない一人っ子で両親も昼間は家を空けがちだから、これは願ってもない練習場所になりそうだ。
とはいえ毎日お邪魔するのも迷惑であろう。活動は週に二日と決まった。
ところがいざ始まってみれば、休みらしくライブ映像をみんなで見たり楽しい話で盛り上がったり、ほとんど練習にならない日も多かったので活動日はすぐ三日に増えた。増えた結果としてやる気を出した私たちだったが、せっかくだからとライブでやる予定にない曲も練習するようになったため、いつしか練習日が足りなくなって四日になった。
これ以上増やしても雪の家族に迷惑なるからねと自重し始める私たちであったものの、なんだかんだと練習のない日にも予定を合わせて雪の家に集まることが多くなった。これは彼女の家族が迷惑がるどころか私たちを嬉しそうに歓迎してくれるのが原因であるけれど、ありがたい。
そうこうしていて夏休みも半分を過ぎようとしていたころ、今日も今日とてクーラーのきいた涼しい雪の部屋でかき氷を食べながら、不意に藤川さんが言った。
「海とかプールとか行きたい……」
よく晴れた暑い日が続いているのだ。じめじめと蒸されるように続く夏の暑さは厳しい。
なので水浴びしたい気持ちは痛いほどわかるけれど、すかさず私は言い返した。
「この前、なんか友達と海に行ったって自慢してたじゃん。楽しそうな写真も見せつけられたし」
クラスの仲がいい女子たちと、海に遊びに行った藤川さんである。
この話題に触れてしまうと私は軽く嫉妬を覚えてしまうため、あまり機嫌がよろしくない。
適当に相槌を打って話を流そうとした私だったが、続けて藤川さんが聞き逃せないセリフを口にする。
「あなたたちと行きたいの」
「……へ?」
私はぽかんと口を開けて、あほ面になっているのではなかろうか。
今、まさか彼女は私たちと行きたいと言ったか?
あの藤川さんが?
「だって、三人は三人で一緒に遊びに行ったりしてるんでしょ?」
「それはそうだけど……。私たちの仲がいいことは周りに隠す必要がないし、昔から仲いいもん」
ね? と顔を向けて確認すると、愛も雪も頷く。
それを見てますます藤川さんはいじけてしまった。
「私だけ一人。仲間外れ感がすごい」
「いや一人じゃないじゃん。他の友達との予定がいっぱいあるらしいじゃん」
なにしろ彼女はどうしても外せない予定があるとか言って、たまに練習を休むことすらあるのだ。それは普通にバケーションをエンジョイしている証ではないか。
むしろこの夏休み、藤川さんを除けば愛と雪の二人とばかり遊んでいる私のほうが人間関係には乏しい。部活とライブの練習以外には予定という予定がなく、だらだらするしかない毎日を送っている。
私たちの属する二軍グループは私を含め人間関係にアクティブでない女子が多いので、どれほど仲がよかろうと教室の外ではあまり積極的に交友を求めない。学校では一緒の時間を過ごすが、休日にはそれぞれの時間を尊重して、あえて遊ぶ予定を作らないというか、会える時に会えればいいよね、みたいな距離感を大事にしている女の子が多いのだ。
だから私なんかより藤川さんのほうが幸せじゃん。
そう言った私だったが、これは即座に真面目な顔をした彼女に言い返される。
「友達が多いから幸せ? その意見を否定するつもりはないけれど、アイドルのすごさって、グループに所属している人数で決まるわけじゃないでしょ?」
「……確かに!」
アイドルの魅力はグループ内の人数で決まるわけではない。たった一人で歌って踊るソロアイドルにも、何十人というメンバーがいてグループ内で競い合っているアイドルにも、それぞれの良さがある。
そう考えれば、友達の多さや交友関係の広さだけが人生の素晴らしさを決定するわけでもないのかもしれない。
その狭さや少なさが、かえって一つ一つを大切にしてくれて、かけがえのない関係を結ばせてくれるように。
自分でも何を言いたいのか、よくわからないけれど……。
「とにかく、私たちと海やプールへ遊びに行きたいわけだ!」
他の誰かと、ではなくて、ここにいる私たちと!
そう言ったら藤川さんは不機嫌になった。
「だからそう言っているじゃないの」
確かに最初からそう言っていた。
まさか話を聞いていなかったんじゃないでしょうね? と疑われてしまったので、もちろんちゃんと聞いてたよ! と反論したけれど説得力はない。
真っ赤なイチゴ色に溶けかかったかき氷をスプーンみたいに先が平べったくなっているストローでじゃりじゃりとかき混ぜながら、すくって食べることもできず、どう答えたらいいのだろうかと私は思い悩む。
「でも、たくさんの人で賑わっている場所にみんなで出かけるわけには……」
悲しいけれど、知り合いの誰かに私たちが仲良くしている姿を見られるわけにはいかないのだ。
それもこれも、すべては文化祭で実行するアイドルライブのためである。
もちろん四人で遊ぶ方法がないわけではない。たとえば遠方にある海やプールであれば、高校生が気軽に行ける場所でもないので私たちの知り合いに遭遇する確率はぐっと下がるだろう。
しかし水着姿の藤川さんはきっと目立つ。たまたま同じ場所に同じ学校の生徒が一人でも遊びに来ていれば、すぐに見つかってしまうだろう。
それに、遠くへ行けば行くほど交通費はかかるし往復の時間もかかる。
この場ですぐに旅行の計画を立てるのは難しいというわけだ。
「遠くへ行くのが難しいなら作戦があるわ。顔を隠すために仮面を付けて行けばいいじゃない。そうすれば近所のプールでも海でも遊び放題よ」
これは藤川さんなりの冗談かもしれないが……。
「仮面を被った水着姿の女子が四人も海やプールに現れたらみんなどう思う? 私なら逃げる」
「SNSにアップされちゃうよ」
「職質されるかもね」
いつも言い返してくる私だけでなく愛や雪まで否定するので、いよいよ彼女は本格的に落ち込んでしまった。
「おしまいね……」
体育座りになって膝を抱えたまま、ばたりと横向きに倒れる。そんな彼女初めて見た。
友達として何か声をかけたほうがいいように思えるものの、下手に励ますと逆効果かもしれない。意外に彼女は素直じゃないしプライドも高い。
そんなところが可愛いのだが、こんなときは扱いが難しい。
ああ、思春期の娘を持つ父親の苦労が今なら理解できる気がする。たまには私もお父さんに優しくしてあげよう。
さすがに気の毒に思えてきたのか、雪が妙に明るい声を出した。
「あ、そういえばプールならあるよ」
「え、あるって何? もしかしてプライベートプールがあるの?」
「うーん……。ちょっと待ってて」
しばらくして部屋に戻ってきた彼女が腕に抱えていたのは、なんと空気で膨らませるゴムプールだ。
小学生くらいの子供たちが遊んでいるのはたまに目にするけれど、女子高生が集まって遊んでいるのはあまり見かけない。そりゃあプールはプールだが、たぶん藤川さんが求めているプールとは違うだろう。四人一緒に入ればぎゅうぎゅう詰めだし、泳ぐのはもちろん、水面にぷかぷか浮かんで漂うこともできない。
それに他の友達とは何度も海やプールに行っている藤川さんが、今さらこんな子供だましのプールで喜んでくれるとも思えない。自分のために持ってきてくれた雪の厚意は無駄にしないだろうが、愛想笑いを浮かべるくらいで終わるだろう。
「今からそれ庭に準備できる?」
「できるよ」
「そっか。ありがとう。すぐに水着を持ってくるから水ためてて」
「うんわかった」
雪と簡単なやりとりをして、やる気を出した藤川さんは立ち上がって部屋を出て行った。あの口ぶりからすると、どうやら本当に家まで水着を取りに戻ってしまったらしい。
ということは、彼女はこれで遊ぶつもりなのか……。
「ゆかりと愛はどうするの?」
そう聞く雪はすでに自分の水着を手に持っていた。
いつも思うが、奥手に見える彼女は意外と行動が早い性格だ。
問われた私と愛は一瞬だけ顔を見合わせて、すぐさま答える。
「五分で戻る」
「私も!」
そして私と愛は先を争うように部屋を出た。
宣言した通りに五分で戻ってくるのは不可能だったが、急いで再集合を果たした私たちは水着に着替えると、庭に広げた小さなプールに年甲斐もなく大はしゃぎした。水をかけたりかけられたりで、こんなに楽しめるとは思わなかった。
練習日はそのうち週七日になるかもしれない。
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