03 ある放課後の水曜日(2)
「えっと、これは……」
私の頭の中は非常事態宣言を告げていた。
ここから避難するにせよ反撃するにせよ、何はともあれ急いで誤魔化さねば大変だ。このままでは後世まで残るひどい悪名が付きかねない。
こんなところで一人、テンションをマックス状態にして大好きなアイドルソングを歌うだけにとどまらず、気分よくノリノリで踊っていたとは……。
すっかり夢中になっていて、普段から私と対立することが多いライバル関係にある彼女が入ってきたことにさえ気づかなかった。もっと早く足音に気が付いていれば対処のしようもあったけれど、水際対策が間に合わなかった。
端的に言うと大失態だ。どう言いつくろったところで絶対に馬鹿にされるに違いない。
露呈したスキャンダルを厳しく追及されるような恐怖におびえ、絶対に倒れまいと身構える私。執行人となった彼女に自分の運命を握られた処刑台のマリーアントワネット気分。
なのに藤川さんは何も言わず、にやりと笑いもせずに、黙ったまま私の目の前へ歩いてくる。
何をするかと思えば、立ち止まる寸前で近くにあった椅子を適当に取り出して座った。まるでそこが最前列の観客席だとでもいうように。
時間がゆっくり流れているのか、体感的に平気で一分以上は続いているように思える長いイントロはまだ終わっていない。数えるまでもなく余裕で百曲は超えるであろうグループのレパートリーの中でも最長の長さを誇る前奏は伊達じゃない。
映画かドラマのBGMのように流れ続けている曲を止めるべきかどうか迷って顔を向けると、座ったままこちらを見る藤川さんと目が合った。しゃべるにはちょうどいいタイミングなのに、それでも口を開かない。いつまでたっても表情さえ変えようとしないので、たった一瞬の沈黙が心苦しい。
いくらでも私を馬鹿にする手段を手に入れた彼女が何を考えているのかわからない以上、消極的な態度で相手の出方をうかがっていても状況は悪化するばかりで、こちらに都合のいい進展はないのかもしれない。
ならば必要なのは積極性だ。誤魔化すなら今を置いて他にない。
「何か勘違いさせちゃった? ただのウォーミングアップだったんだけど」
おっとこれは、なかなかうまい言い訳じゃないだろうか。
文化祭で私たちがライブすることを知ってくれているのなら、これも練習の一環だったとかいえば。
だけどあっさり流された。
「それで? この曲は歌えないの?」
すぐに馬鹿にして笑ってこないところを見るに、ひょっとすると私が心の内ではうろたえているのを察して面白がっているのかもしれない。
それもそうか、教室ではいつも比べられ、もはや一種のライバル扱いされている私が普段のイメージとは異なる女性アイドルの歌に熱中している場面に出くわしたのだから。おもちゃにするには都合がいい。もはや無様に飛び跳ねるしかないまな板の上の鯉か、もしくは自分から道化の格好を着こんでしまった見世物のサーカス状態だ。
そうは言っても私にはまだ助かるチャンスがある。金で買われた奴隷でもないのだから、自由意思のある私は女王様気取りでいる彼女の望み通りに振る舞う必要などないのだ。ストライキも反逆もやり放題である。
「……歌える」
なのに私は素直に答えた。
自暴自棄になったのでも、ムキになったわけでもない。
ただ折り悪く、偶然にも私たちのバックで流れているこの曲は、勇気を出して自分をさらけ出すことの大切さを歌ったもの。何者にも負けず、最後まで自分らしさを貫く強さを願った歌。
考えてみればアイドルとして活躍する彼女たちだって、日の目を見るまでには何度となく障害を乗り越えてきたのだろうし、ひのき舞台に立つことができた今でさえ大量の誹謗中傷や白い目にさらされ、嘲笑だけでは済まない残酷な言葉や仕打ちと戦っているのだ。
それを知っているファンの私がこの程度のことで尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかない。
死地に赴く覚悟にも似た私の決意とは裏腹に、口元をわずかにゆがめた程度で終わった藤川さんの反応は薄い。
「ふーん。だったら踊りのほうはできるの?」
「もちろんできる」
歌詞のない異常に長いイントロは、一説には容赦のない世間の声に反論することなく耐え忍ぶ彼女たちの強いありさまを表現するものでもあるし、その曲を聴く私たちの日常にはびこる悲嘆を優しく浄化するような不思議な力を持っている。やきもきするほどの長すぎる前奏を乗り越えて、ようやくたどりついた最初の歌声が涙で震えていたのがライブでの初披露だったから、単純に長さだけではない理由によって今でもこの曲はファンの間で伝説なのだ。
「ではどうぞ」
それを知っているなら狙ってやっているのだろうが、知らないなら曲と運命がそうさせたであろう藤川さんの合図で、ちょうどタイミングよく歌唱に入った。
なるべく顔を見ないように、けれど本気でやってやろう。どうせ馬鹿にされるなら、アイドルである彼女たちの高みにまでたどり着きたい。いっそ藤川さんの旗色を翻せるくらいに。
そんな一心で私は懸命に踊り、最後まで歌い切った。
今度はアウトロが終わってしまう前にスマホへと手を伸ばして、自動的に次の曲が流れるのを停止することもできた。
目立ったミスもなく、完璧にやり切った感も十分。もはや得意げな気持ちで彼女に胸を張ってみせる。
どう? これがアイドルソングってやつ。馬鹿にしたもんじゃないでしょ?
そう言って共感してくれる相手なら、私は抱き着いて喜びを分かち合いたいくらいだったのに。
歓迎するように両手を広げるどころか、乾いた音でパチンと手を打ち鳴らして、藤川さんはにやりと一言。
「少し振り付け間違ってた」
「いや間違ってないし」
いきなり何を言い出すかと思えば……。
よく知りもしないのに、そんな適当ないちゃもんをつけてくるとは……。
へたくそだったと言えば、私が落ち込むとでも思っているのだろうか。もちろんファンでもない相手に全力を出して大好きなアイドルの曲を踊ってしまったのは骨折り損のくたびれ儲けと言うほかないが。もはや心のインパール作戦だ。
「二回目のサビの足のステップ」
「え?」
「正しくは、こう」
そう言うと椅子から立ち上がって、その場で軽やかに実演して見せる彼女。
タン、タタ、タンと足を踏む。なるほど確かに見覚えがある。
まるで本物のライブを見ているみたいだ。
「私がやったのは?」
「こんな感じだった」
ドタ、バタ、スカッと足がもつれる。なるほどテンポはひどいし素人から見ても下手な動きだ。足運びに躍動感もなく、不格好で見栄えもよくない……って、いやさすがに床の上で足を踏み外してまではなかったし、それはやりすぎだ。バカにするにもほどがある。
でも彼女の言いたいことは分かった。
確かに足元への意識は不完全だったのだ。
「上半身の振り付けは完璧。でも下半身の振り付けはおろそか。これって……」
藤川さんの伸ばした指が私の眉間へと突きつけられた。
「部屋でこそこそ練習してた人の特徴」
「うぐっ……!」
私は言葉に詰まってのけぞった。息も詰まって心臓が止まるかと思った。
まるで部屋での私を覗かれたかのように正確な図星で、顔がカーッと熱く赤くなる。
まさに私は部屋でこそこそ練習していたのだ。自室で、夜な夜な、音をたてないようにヘッドホンで音楽を聴きながら……。足の動きがおろそかになってしまうのも無理はない。イメージトレーニングだけでは不十分だったということか。
アイドルのファンであることはともかく、あんまり女の子らしくないだの、どちらかといえば男の子勝りだのと、子供の頃から馬鹿にされてきた私が本気でアイドルに憧れていることは友達にはもちろん家族にも内緒である。実はアイドルになりたがっているなどと知られたら、もう恥ずかしくて生きていけない。
なのに、たった一回ダンスを見ただけの藤川さんにここまで見破られてしまうとは。
精神的に大ダメージを受けた私は声にならない声を絞り出した。
「言うのは簡単だって……」
そう、言うのは簡単だ。批評だけなら第一線で活躍しているプロに対しても簡単にできてしまう。
プロでなくても、こっちにだって言葉にできない苦労がたくさんある。
すると藤川さんから信じられない言葉が返ってきた。
「そう? 私はできるけど?」
「ほんとに? できるわけないじゃん」
「だったら試す? 今、ここで」
「うん。やってもらう」
言ったからには逃がすのは許さない。問答無用でスマホの画面に表示されていた再生アイコンを押すと、待ってましたとばかりに三曲目が始まる。
シャッフル機能でスタートしたのはコミカルなポップス。おバカな歌詞で、ふざけたダンス。味の濃い駄菓子を口いっぱい頬張るみたいに童心に帰って楽しむ曲であり、ライブでは最高に盛り上がるというが……。
はっきり言って藤川さんのイメージとは異なる。柄じゃないとか想像できないとか私の口からは言いたくないけれど、いつもの彼女なら絶対に「おっぴろげー!」とか言ったりしない。両手で自分の頬をはさんで「あっぷっぷー!」とかやったりしない。
それでも彼女が迷ったのは一瞬だけ。
見てなさいよ、と言いたげに私へと送り目。
次の瞬間には入り込んでいた。
アイドル藤川の誕生である。
「さぁ、どうだ!」
アップテンポに激しい動きのせいで私より短めのスカートがめくれ、あらかじめ見せることを意識していたかのようにおしゃれなパンツまで覗かせた彼女は最後まですべてやりおおせた。私は夢でも見たのか? いや、どうやら現実だ。つまりここに彼女の実力は示されたのである。
どこにでもいる文句だけは一丁前の口だけ人間じゃないことが証明されて、本当にすごいのはちょっと悔しい。
これは一朝一夕に聞きかじったとかいうレベルじゃない。
本物のファンじゃん。
私と同じじゃん。
それまであった敵意や対抗心がにわかに尊敬の念や同族意識へと変わっていくという、これまでマジノラインばりに心の中に存在していたベルリンの壁が壊れていく音を聞きながら、けれどやっぱり同じアイドルのファンとしては負けていられないという意地だけが辛抱強くレジスタンス。
素直に褒めてしまうのはプライドが邪魔をする。でもすごいものはすごいと認めたい。
折衷案として声や感情を押し殺して頷く。
「確かに振り付けは完璧だった」
「でしょう!」
すごく嬉しそうだ。邪念のない藤川さんの素敵な笑顔が私に向けられるのって驚くほど久しぶり。感情の高ぶりを押し殺していられずに私も嬉しくなってくる。
そんなつもりなかったのに思わずハイタッチしてしまった。うっかりハグまでしそうになって思いとどまった。
こほんと咳払いして、ぶんぶんとサイリウムを振ったり握手したくなったりするアイドルファン全開の浮いた気持ちを追い払う。スマホでツーショット写真撮るのもお預け。
一歩下がって距離を取って私は広げた手のひらを突き付ける。尻尾を振る元気な犬に向かって「待て」をするように。
「でも頭の中のイメージに体が追い付いてない。特に後半は目に見えてキレがなくなってたし、息が上がって声も出てなかった。トータルでは私の勝ち」
この否定しがたい悲しき事実を自分では認めるつもりは断じてないらしく、そんなわけないでしょと肩をすくめた藤川さんは笑顔のままだ。
「あら、もしかして負け惜しみ?」
「いやいや、これは私からの勝利宣言だよ」
「受け入れられないわ。降伏勧告をする!」
「ごめん、もう心の中に凱旋門建てちゃった」
「凱旋門? お馬さん走るの? 負け犬じゃなくて大丈夫?」
そんな具合に二人でしばらくどっちが勝ったか上手かったかで言い争う。しまいにはアイドル知識のクイズ大会まで始めそうになったので、ヒートアップしかかった私と彼女は二人でどーどー(落ち着け)しあって一時休戦。
なんなら次の曲でダンス勝負をしようと、スピーカーの音量を上げたスマホを二人の前に置いて再生スタート。
ところがタイミングの悪いことに、流れてきた次の曲は振り付けの控えめなバラードである。これではダンス勝負にならない。やろうと思えばダンス以外の部分で張り合うこともできるが、素人には判断が難しい歌唱力の勝負では互いに勝ちを譲らないだろう。
けれど、だからといってさらに次の曲へとスキップすることは考えられない。なにしろこれもまた名曲であるからだ。しかもちょうどいいことに友情をテーマにした青臭い青春ソングである。
すごくいい歌なので、真剣に聴いてたら泣いちゃう。
すでに感動しつつある私はちらりと藤川さんに目配せをした。
「……これ、一緒に歌ってみる?」
「あなたと?」
「嫌ならいいけど」
「嫌っていうか、ちょっと待って。今まで歌うときは私一人だったし、誰かと一緒に歌ってハモれるかどうか自信ないわ」
「私もそうだし、別にいいんじゃない?」
「あなたね……」
なんだかんだと言われて断られると思ったけれど、そんなことなくて結局二人で歌った。
気持ちよくて震えた。
正直もう勝負とかどうでもいい。
歌い終わってからスマホを手に取って、高鳴る胸を抑えきれずに私は思わずつぶやいた。
「まさか藤川さんが私と同じアイドルのファンだとは思わなかった」
「それも熱心なファン」
「踊れるほどにね」
しかも下手をすると長年ファンとしての活動を隠れてやってきた私よりも上手い。簡単には認めたくないけれど、彼女が本格的に体力をつけて動きのキレをブラッシュアップさせてきたらヤバイ。
そんなの普通に見たくなってくるし私のために踊ってほしい。
「意外だった?」
「びっくりしたのは事実だけど、嬉しいサプライズってテンション上がるよね」
確かに藤川さんがアイドルを好きなのは意外だけど、そんなに驚くほど予想外なことじゃないのかもしれない。少なくとも隠れオタクをやっていた私も似たようなものだから、今まで黙っていた彼女のことを言えない。
それにアイドルの素晴らしさといったら!
How cute!
ファンにならないほうがどうかしているのだ。
「教室でもニコニコしてればいいのに」
と、これは藤川さん。
「……私、笑ってた?」
まるで自覚がない指摘を受けて思わず眉をひそめてしまう。
いくら嬉しいことがあったからって私が彼女の前で笑う? 今までは顔を合わせるたびに緊張して身を固くしていた私が?
まさかそんなわけないだろうと疑いつつも、自分の顔を触って確かめてみる。
あれ、ふにゃふにゃだ。これはきっとだらしなく笑っていたに違いない。
いつも楽しそうに笑っている藤川さんとは違って私はどちらかと言えば冷めているような無愛想なキャラなので、これもイメージに反する反応だ。少しばかり恥ずかしい。
「自覚がないって相当ね」
そう言って彼女もクスクスと笑い始めるから、ますます私は恥ずかしくなる。
でもなんだか一方では嬉しくもあるから、アンビバレントな人間の心は不思議で奥深い。
とはいえ私ばかりいじられるのは不公平だ。
「それを言うなら藤川さんだって、みんなにもっと優しくすればいいのに。自分が属するグループ以外の子にはちょっと当たりが強いと感じるときもあるよ。この前だって、ほら……」
「この前?」
「うん。私が覚えている限り――」
先日のことだ。彼女はクラスの冴えないオタク男子たちと激しく言い争って、お仲間の女子と一緒になって彼らのことを馬鹿にしていた。言い争いというか、現実的にはほとんど一方的だったようにも感じるが。
まあ、うちのクラスにいるオタク男子は女子にも平気で皮肉とか愚痴を言ってくる強気なタイプだし、彼女たちも売り言葉に買い言葉みたいなものだったろうけれど、少なくともあの瞬間、アイドルオタクという存在を下に見ていたことには違いない。
離れた席で聞いていた私も自分のことを言われたように感じてちょっと傷ついたから、よく覚えている。
それを指摘すると藤川さんはウィークポイントをつつかれたみたいに頭を抱えた。
「あれはかわいそうなことをした……。いくら相手のほうから喧嘩腰に絡まれたからって、怒って言い返すにも限度はあるものね。その服ちょっとださいじゃん、くらいの軽いジャブをしたつもりだったけど、冷静に考えたら傷つくはずだし彼らには恨まれてそう……。でも女子みんなオタクのこときもいって言うんだもん。というか男子も言うじゃん。私だけそうじゃないって言えない空気で……」
「確かに」
「でも今度、それとなく彼らには謝っておこうかな。どういう感じで謝罪するのが一番いい方法なのか難しいけど、アイドルにもファンにも罪はないから」
そこまで言って彼女はため息を漏らした。
「けれど私にだってイメージがあるのよね……」
「イメージか……。わかるよ、そういうの。私も他の人のこと言えないもん。藤川さんも周りに作られた自分のイメージに乗っかっちゃって、ついつい心にもない言動が飛び出すこととかたくさんありそう」
「本気で言ってるわけじゃないって口実を胸に抱えてても、いつだって相手に届くのは本来の意図を離れた悪意だけで、大事なことは伝わらないのにね」
「大事なことを口にできたなら……」
「私たちはもっと早くにハモっていたわ」
「なるほど」
言われてみればそうかもしれない。
そう考えてみると、私たちはなんて無駄な対立をしていたのだろう。
よくわからない感慨にふけっていると、唐突に藤川さんが私の肩を指でつついてきた。
「ゆかり」
「え?」
いきなり名前を呼ばれてどきりとする私。これまでは直接的な交流を避けた冷戦状態だったせいで名字さえあんまり呼ばれたことなかったのに、いきなり馴れ馴れしいレベルの不意打ちを喰らって泡を吹きそうだ。
バレンタインデーに片想いの相手からチョコをもらった気分。
どぎまぎしていると彼女はちらちらと私の目を覗き込んでくる。
「ゆかり……って、あなたのことを呼んでもいい?」
「えーっと、いいよ。もしも私と友達になってくれるなら」
「……友達?」
「ゆかりって私のことを呼ぶのは、親を除けば友達だけだし……」
「そう……」
と言ったきり、逃げるように目をそらしたまま口をもぞもぞさせる藤川さん。
いや、普通に呼んでくれていいんだけど。なんで呼んでくれないんだ。
なんだか気まずくなってしまった。
私も彼女のことを藤川さんとかじゃなくて下の名前で呼んでみたい。けれど、長らく変に意識してきた間柄なので、今さら気恥ずかしくて呼び捨てにはできそうにない。あだ名とはいえミッチーもちょっときつい。
なんでこう恥ずかしくなるんだろうな。
言葉が切れたことを、私たちの会話が一区切りついた結果だと判断したのだろうか、
「そろそろ入っていい?」
と、これは扉のほうから響いてきた遠慮がちな声だ。
「え? ……あっ!」
そういえば二人のことを忘れていた。
愛と雪である。
教室までスマホを取りに行っていた二人だったが、いつの間にやら戻ってきていたらしい。
「つまり二人は友達になったわけ?」
地学室に入るなり確認を求めるように愛は言ってきたのだけど、これはどう答えたらいいだろうか。
実は私にもよくわからない。
「どうなんだろ。友達でいいよね?」
「ええ」
それとなく藤川さんに聞いてみると、意外にも素直に彼女は首肯した。
よっしゃあ、とやりたいガッツポーズは控えめな動きですませておく。
「ということで友達になったわけです」
「ははぁ、なるほど。歴史的な出来事はいつだって唐突に起こるんだね……」
なぜか愛は感銘を受けている。
とはいえ今まで犬猿の仲であった私たちがいきなり打ち解けていれば面食らうのも当然か。罵詈雑言を飛ばし合っていた国の首脳同士が突如として歴史的会談を実現させて握手するようなものだ。平和になるのは歓迎するにしても、振り回されるほうは大変である。
今回ばかりは私のことだが、私だって驚きを隠しきれていない。
「でもよかったよ」
そう言った雪は何を思ったか藤川さんの隣まで歩いて行って右手を差し出す。
「ゆかりの友達は私の友達。これからはよろしくやろう」
「え、うん……」
友好の証として握手をするつもりだったらしく、藤川さんも流されるまま雪の手を握っていた。
それを見た愛は慌てて駆け寄って藤川さんの左手をつかみ取る。
「私も友達。反論はある?」
「……別に」
素っ気なく答えて口を尖らせたけれど嫌そうなそぶりは感じられない。むしろ心なしか嬉しそうだ。
両方の手を二人に取られたまま振り払えずにいる藤川さんはちょっと面白い。というより私は二人の積極性がうらやましいのだがどうしたものか。
君たちは今の今まで藤川さんのことを怖がっていたんじゃないのか。なぜ私よりも先に藤川さんと手をつなぐ。
「ねー、ゆかり。文化祭だけど、この四人でアイドルライブをやろうよ」
そう提案したのは笑顔を浮かべる雪だ。右手を握りしめたままなので藤川さんも逃げられない。
思いがけない提案を受けた私は胸の前で腕を組んで、無理難題を突き付けられた外交官のように難しい顔をしてから答える。
「うーん、それならやりたい」
もったいぶって見せたのは意味のないポーズでしかなかった。
だってそんなのすごくやりたいじゃないか。
憧れているのだ、アイドルに。子供の頃からずっと私は。
「藤川さんも、どう?」
「そうね。私もやりた……いや、やっぱりいい」
ほんのちょっと目を輝かせて興味がありそうにしたものの、すぐに目を伏せて二の足を踏む藤川さん。ポジティブな反応を見せてくれた感情論とは別のところで、彼女なりに色々と思うところがあるのだろう。なにしろみんなの前でアイドルのように歌って踊るなんて、それを「好き」というだけではやりきれない勇気と度胸のいるパフォーマンスだ。
これがもしも正式に決まったクラスの出し物で、女子が一丸となってライブをやる話なら簡単だ。右へ倣えの全員行動。流れに乗っているだけでいい。
だが自分の意志で参加を決める有志のイベントではどうか。あらゆる責任はすべて自分で受け止め、恥や外聞は自分で飲み込まなければならない。ライブが成功するにせよ失敗するにせよ、そのことによって生じる結果は誰のせいにもできないのだ。
アイドルの曲を歌うと決めて、アイドルのようにステージで踊る。
それはすなわち自分がアイドルであろうとすることそのものだ。
決意がいる。
だから私は尋ねずにいられなかった。
「本音のところは?」
「それは……」
ぼそぼそと尻切れトンボに言葉は掻き消えて、いつもの自信はどこへやら、うつむいた藤川さんは唇を固く閉ざしてしまった。
その様子を見るに、すぐには決意が固まらないのかもしれない。
それでも辞退する言葉さえ返ってこないということは、どこまで自分の気持ちと正直に向き合えるかを真剣に考えているのだ。
なら、彼女の戦いを邪魔するわけにはいかない。
辛抱強く答えを待っている間に私は無言のまま愛と雪に目をやって、彼女から手を離すように合図する。拘束された宇宙人のように虜囚状態となっている彼女に回答を迫るのはフェアじゃない。
願いはするが、圧力はかけない。
これは彼女の本心から出る気持ちを待たなければ意味がないのだ。
名残惜しそうな歩調で二人が離れ、両手が自由になった藤川さんは手持ち無沙汰にもじもじと指を組み合わせた。
それから数秒後、どこか遠い目をして彼女は口を開く。
「実を言えば、私って昔いじめられてたの」
「……え、藤川さんが?」
「意外?」
「どうだろう。でも、すんなりとは受け入れられない。私と同じアイドルが好きって話より信じがたいかも」
そう言ったら少しだけ気が楽になったのか、ふっと息を漏らした藤川さんは口元に笑みを見せた。
「いじめといっても小学生の頃の話よ。それも誰にでもある一時的な喧嘩みたいなもの。たぶん周りに聞いても、いじめなんてなかったと答えてくれるでしょうね。そんな程度のちょっとした排斥運動。だけどそれだけで私は自分の弱さと世界のままならなさを知ったわ」
どんなに辛くても涙こそ流さなかったけれど、と、それは彼女の強さがそう言わせたのだろうか。
「同情してほしいわけじゃないからあなたにすべてを打ち明けはしないけれど、ともかく、今の私は自分の中に眠っている弱い自分を否定して、一人の人間として強くありたいの。この世界の誰にも私の弱さを否定されたくないから。心の底から好きなものに浸っていると私は弱くなるのよ、泣きたくなるくらいに……」
ざあざあと、窓を隔てた校舎の外では音を立てて雨が降り始めていた。
「泣きたくなるくらいに弱くなるって? 好きなものに浸っているのに……?」
どちらかというと、彼女の言っていることとは逆のように感じた。
私は単純だからこう思う。好きなものに浸っている間は強くなれるんじゃないだろうか、と。
笑って、楽しくて、充実して、孤独や寂しさなんて忘れてしまえるくらいに。
「あなただってわかるでしょ? いいえ、あなたもアイドルのファンであることを私と同じように隠しているんだから絶対にわかるはず。自分が大好きなものを嘲笑された時の死にたくなる気持ちが。それを大好きでいる自分が、いろんな意味で否定的に受け取られてしまった時の死んじゃいたくなる絶望が」
「……うん。わからないとは言えない」
自分が好きなものを、あるいは自分が好きでいることを否定された時の死んじゃいたくなる気持ち。
程度の大小はあれ、それはおそらく私にも共通するものだ。
悲しいけれど彼女の気持ちはよくわかる。つい先ほど藤川さんにアイドルを好きなことがばれたとき、私だって一瞬本気で死を覚悟したのは過言でもなければ語弊もない。
もちろんその死は世間一般に言われる死とはまた別の広義的な死であって、すなわち己のプライド・スタンス・アイデンティティを含む自分の何もかもが崩れ去っていくような、簡単には取り返しのつかないレベルで精神に受ける大打撃のことを意味していて、それが彼女の言うところの「弱くなる」ということだろう。
「だから私は……。誘ってくれて嬉しいけれど、ごめんなさい」
そう言って彼女は身を翻す。これで終わりとばかりに立ち去ろうとする。
あまりにも大げさな表現をするなら、このまま藤川さんを見送れば永遠の別れになるような気がした。
だから私は「待って」と声にした。
荒れ狂う嵐よりも激しく心に渦巻く理由を具体的には説明できないけれど、どうにかして藤川さんと一緒に舞台に立ちたくなったのだ。
それは決して自殺行為じゃない。
あくまでも自分が自分らしくあるために、そしてこれからも周囲とうまくやりながら生きていく勇気のために。
他でもない私たち二人が愛するアイドルの曲とともに立ち上がりたいと思えた。
「……何? どうしたの?」
「えっと……」
とっさに呼び止めたはいいものの、すぐには言葉が出てこない。
じっと待つことに痺れを切らした彼女が再び外へ向かって足を進めてしまう前に、なんとかして文化祭で藤川さんと一緒にライブができないものかと知恵を絞らなければ。
「……つまり、えっと、藤川さんのことが誰にもばれなければ大丈夫なの?」
「そうね、だからあなたとこうして隠れて踊っている分には楽しいの」
「だったら文化祭でのライブもばれずにやれば……」
「馬鹿ね。ライブは人前でやるものでしょ。隠れてどうするのよ」
「違う、そうじゃなくって……!」
頭の中の考えがまとまるより早く、思いつくままを口にする。
「髪型を今とは違うものに変えて、私たちの体型がわからないくらいに派手なアイドル衣装を着て、みんなそろって顔を隠すための仮面をつけて……」
それから、それから……。
そうだ。
「いつも対立している私たち二人が顔を隠してステージに出れば、見ている誰もまさか私たちだとは思わない! 文化祭で楽しそうにアイドルしてる仲良し四人組の正体が実は私たちだったなんて、気づく人なんかいないよ!」
自分でも知らないうちに身体が動いていたのか、気が付けば私は藤川さんの手を握りしめていた。
ああ、なんて名案なのだろう。
実際に素性を隠した仮面アイドルは実在するし、文化祭ならそういう仮装だとして意外にすんなり楽しんでもらえるかもしれない。
いやいっそ私たちが楽しめればそれでいいのだ。
あっけにとられた藤川さんはしばらく口をぽかんと開けていたけれど、包み込んでいる私の手を握り返してきて真剣な表情を浮かべる。
「仮面で顔を隠して、髪形も変えて、いかにもなアイドル衣装を着こめば……私たちだとばれない?」
その声ににじむのは半信半疑の逡巡。
実は私だって言葉ほどには信じちゃいない。
だけどその可能性にかけてみたくなったのは疑いようのない本音だ。
「恥ずかしがらず、完璧なパフォーマンスを見せれば絶対に大丈夫」
「確かにそれはそうかもしれない……?」
あと一押し。
私は握り合う手に熱を込める。指をもっと絡ませたくなる。
ここを逃せば、きっと私たちは離れ離れになってしまう気がしたから。
最初は身を引いていた彼女にも熱の入った私の想いが届いてくれたのか、やや前のめりになってくる。
「そうね、たぶんソロだったなら歌声でばれる。でも四人で一緒に歌えば、声だけで個人を特定する難易度はぐっと上がる……。アイドルソングを歌う場合って、なんだか普段しゃべっているときの声とはちょっと違うと思うし……じゃあ、意外といける?」
いけるいけると言いながら私は上下に手を振って答える。
「たとえ誰かに声が似てると指摘されたって、クラスでも犬猿の仲で有名な私と藤川さんが一緒にアイドルソングを歌って踊るなんて誰にも想像できないでしょ。もしライブ後に正体探しが始まったとしても、私たちの場合は無意識に候補から外れてくれるよ」
「そのときは私も全力で否定するしね」
「そうそう。それに万が一いつも仲良くしているせいで私たち三人の正体がばれたとしても、愛と雪とは口裏を合わせて、ライブの時だけ誰か別の人を助っ人に加えたとでも説明するから平気だよ。ひどい拷問を受けたって藤川さんのことは絶対に言わない。言わないから一緒にやろう」
「うーん……」
駄目だろうか。やっぱり難しいだろうか。
雨音が強くなるにつれ私の心は悲観的に湿っていく。晴れていれば自信があったかと言えばそんなこともないので、すべてを天気のせいにはできないけれど。
「やる」
「……え?」
はっきりと聞こえたくせに聞き返してしまった。こればかりは天気のせいにした。土砂降りではないにしても雨音がひどいのは事実だし、望んでいた返事なら何度でも聞きたい。
ここが度胸の見せ所だと意気込んでいるらしい藤川さんは聞き逃した振りをする私に対して不満をにじませることなく、さっきよりも強い語調で再び同じ言葉を口にする。
「やると言ったの」
「えーっと、そう言ってくれるのは嬉しいけれど、本当にいいの? やっぱりやめたとは言わせないけど大丈夫?」
嬉しいからこそ慎重になって尋ねれば、こちらの不安を吹き飛ばすくらいに藤川さんは力強く答えてくれる。
「やりたいと言っているの。一緒にやりましょう、私たちで」
「ありがとう! そう言ってくれることを願ってた!」
今度こそ疑いようはない。
喜びのあまり私は彼女に飛び掛かって抱き着いていた。
正面切ってのハグ。
しっかり受け止めてから一度は力を込めて抱き返してくれたくせに、はっと我に返った藤川さんは慌てて両腕で私を押し返した。あっちに行けと言われているみたいだ。なんだか冷たい。
「ただ、それまでは私たちが友達であることはふせなくっちゃ」
「え、ふせるの?」
「当然。でなきゃ作戦が台無しでしょ?」
「あ、それもそうか……」
仮面をつけて顔を隠した状態であれば一緒に出ても絶対に正体がばれないというのも、そんなことをしそうにないほど敵対していて仲の悪いことで有名な私たちだからこそ有効な理屈なのだ。文化祭の前にみんなの前で一度でも仲良くしてしまえば、いともたやすく歌っているのが私たちだとばれかねない。そもそも教室でも顔を合わせて話すようになれば、どうしたって好きなアイドルの話をしたくなる。
それでは隠すどころの話ではない。一目でばればれだ。
「いーじゃん、みんながいないところでうんと仲良くしちゃえば!」
と、これは何事にもポジティブな愛の言い分。
確かにその通りなのだが……。
「教室では今まで通り。心の内側以外はね」
そう言って笑う藤川さんと、私はやっぱり教室でも楽しく笑い合いたいと思うのだった。
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