第16話 しつこい、愛しい来訪者 ②

 二人が部屋に入ると、遼介の体温を感知して、玄関と廊下のライトがついた。ヒトミは靴を脱ぎ、遼介の後に付いて家に上がった。


 6メートルほどある廊下の右側には収納棚が並ぶ。左側4メートル先には倉庫室の扉があり、廊下の突き当たり右はトイレ、左の扉を開けると、20帖程のリビングがある。リビングから見て右側の奥先には2つの扉があり、右の扉は洗面所と浴室、左の扉は洋室に繋がる。二つの扉から見て右には裏玄関窓、左側には引き戸の先の和室と、広いシステムキッチンがある。更にキッチンと一面の壁を隔て、左側は和室の部屋がある。


「こんな広いマンションに一人で住んでるかな?」


「そう。お茶とコーヒーどっちがいい?」


「ジュース飲みたい」


「残念。今はジュース切らしてる」


「ならコーヒー。ブラックでいいわよ」


「分かった。ここで少し待ってろ」


 遼介は手に持った紙袋の中身を冷蔵庫に入れ、ヒトミはソファーに座って遼介に訊ねた。


「あんた、どんなバイトしてるかな?」


 遼介はキッチンの収納棚からコーヒー道具一式とカップ二組を取り出し、手を動かしながら答えた。


「最初は色んな飲食店で働いて技術を学んで、料理人が休みの時には代わりに作ってた。あとは中学校のバスケ部とか道場の顧問をやったことがある。新東京警視庁とレッドオーダー契約をしてから、今は主に運び屋と企業コンサルとコンソーシアムの仲介なんかをやっている。あとは、チャンネルでゲームをやっている。チェスは最近やってないけど将棋とか囲碁でよく小遣い稼ぎしてるよ」


 遼介のバイト履歴を聞いて、ヒトミは最初は興味深そうにしていたが、話が進むにつれ、驚きの連続、最後には呆れてしまっていた。


 どこまで本当かはわからないが、大金を稼いでいるのは確かだ。それでもヒトミには納得できないことがあった。


「ちょっと待って!特命派遣レッドオーダーの役人をやっているのに、どうして武術と無関係なバイトをするかな?」


「俺は警察からは金を受け取ってないんだ」


「どうして?その仕事だけで生活するには十分じゃない?」


 遼介は電熱コンロのスイッチを回してポットを加熱し、コーヒー豆を小さいソテーパンで焙煎している。祖父のことを思い出すと、遼介は真剣な表情になった。


「それは出来ない。うちの祖父と約束したことだ。武道家として宗家の武術で金を儲けることはしない。それが実家を出て、この下界しゃかいを見聞する条件だ。武術大会で活躍していようが今もそれは変わっていない」


「あんたはその条件を素直に飲むってわけ?」


「もちろんそうする。ヘラドロクシを退治する代わりに金を稼ぐなんて、俺の正義にも反してる」


 ローテントロプス機関配下の源将尖兵やエージェントの仕事を務めれば、相当な給料を稼げるし、充実した待遇を受けられる。だが、遼介は組織の下につく生き方を、鼻が曲がるほど嫌っていた。


 「そう、正義ね……」


 遼介の言葉を聞いてヒトミは窓外の夜景をぼんやり見ながら考え込んだ。


 5分後、遼介はコーヒーセットを載せたトレーを楕円形の小さいテーブルに置いた。


「待たせたな」


 ガラス製のコーヒーサーバー、純銀の透過ドリッパーとペーパーフィルターを入れる。遼介はヒトミの前で、先ほど焙煎した豆を挽く。リビング中に熟成したコーヒーの香りが広がる。


「ただコーヒー飲むだけなら、インスタントコーヒーで良いのに」


「お婆ちゃんに教わった。お客さんはちゃんともてなさないといけないって。お前は俺の客、だからこれは当然の行為だ」


 遼介はティーポットを持ち上げ、丁寧にゆっくりとお湯を注ぐ。ヒトミは両手で頬を支えて微笑む。どこか妖艶な色気がある仕草だった。ヒトミは遼介が真剣にコーヒーを淹れている表情を見つめ、鶴見学院長の丁寧に茶道を稽古する姿を思い出した。


「ふふっ、お客を大事にする姿勢は鶴見棗苗様とそっくりね」


「お前、お婆ちゃんのこと知ってるのか!?俺が武術大会で三回目の優勝をした後、彼女は家を出て行ったんだ。祖父曰く、修行の旅に出たらしい。居場所はさっぱりわからない」


「知っているような、知らないような、って感じかな」 


「どっちだよ」


「皆が知っている情報量とほぼ同じよ。光野宗家の家長、光野泰典と鶴見棗苗の名は、本当のウィルターなら誰でも知っているわよ!」 


「あの人たちが若い頃に何をしたか知らないけど、確かに武恒連盟の各門派の総師範たちとも関係は良さそうだ。彼らは俺を、諭心流の継承者として育ってようとした。子供の頃から彼らの要求を応えることだけ考えて、そして諭心流の弟子として大会に出場し、何回も優勝してきた。俺は宗家の栄光を保つために必死に修行してきた。祖父は源神諭心流の極致であるともに鬼のように厳しい師範、お婆ちゃんは厳格な切れ者。それは皆が知っていることだろう?」


 この尊大な態度。どうやら手厚い指導が必要らしい。ヒトミはからかうように笑った。


「若いわね。あんたは本当に無知な愚か者だわ!彼らの功績はあんたが思ってるより遥かに偉大よ」


「どうでもいいことだ。俺を生んだ親の事を含め、彼らは昔から俺には隠す事ばっかりだった」


 ヒトミの心に同情が芽生えた。この男の成長背景は自分と似ている部分がある。今度は優しく遼介に語りかける。


「あんたは、宗家の継承者としても、闘士ウォーリアとしても、生き方が惨めだわね」


 遼介はコーヒーを二つのカップに注ぎ、まっすぐヒトミを見てカップを渡す。


「はい、コーヒーどうぞ」

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