第15話 しつこい、愛しい来訪者 ①
赤坂エリアにある高級マンション住宅地。赤坂の日枝ヶ淵の散策道、桜とイチョウ並木の下に幅5メートルのタイル路面に1メートル間隔で青い灯が埋め込まれ、道先まで線を描いている。
上からも10メートルの街灯がしっかり照らしている。常緑小木で植木した天然の壁の反対側に水が流れる音。優しくどこか懐かしい口笛の音が聞こえる。遼介は「サッポロ海鮮市場広場」と書かれた紙袋を抱えながら歩いている。一日の全てのバイトを終わり、楽しそうに口笛を吹いている。
遼介の自宅である高層マンションまでやってきた。外の彫刻の上に「REAL赤坂ヶ淵」の刻石がある岩が聳えている。玄関に入る前に、何かの気配を気ついて遼介の顔は険しい表情を変わった。自分のポケットからデバイスを取り出し、時間を確認する。
(21:32)
遼介は軽く溜め息をつきながら玄関に進む。自動ドアが開いた。大理石でデコレーションされた広いロビーには、右側に流水の景観壁がある。左側には木の台に盆栽が置かれ、その裏のスペースには来客が利用できるソファー席がある。そこは雑誌と喫茶バーを使い放題の閲覧室だ。
遼介がロビーの中央まで進んだところで、ソファーの方からヒトミの声が聞こえた。
「こんな時間までバイト?案外苦労人なのね」
顔を見なくても笑っているのが分かる。遼介がうんざりしていたのは、彼女の気配に気付いていたからだ。遼介は足を止め、無愛想に言い返した。
「こんな時間まで見張るのか?お前は結構暇人なんだな」
「言ったはず、話はまだ終ってないわよ!」
「俺はあのゴミ屑機関のミッションになんか興味ない。他の連中を当たれよ」
「そういうことじゃない!あんたのことだわ、【
また嫌な名で呼ばれた。いっそ好きなだけ話させた方がいいと思った遼介は、また深い溜め息をついた。
「はあ……しょうがないな。その話、俺の家でお茶でも入れて聞くよ」
「いいの?」
「こんな所でする話じゃないだろうからな」
「なら、お言葉に甘えて」
閲覧室の入口に、制服姿のヒトミがやってきた。遼介はそのまま延み、ヒトミは彼に付いていく。この先は住人しか通れない、セキュリティゲートだ。
遼介は投影されたパネルに部屋番号と八桁の暗証番号を入力し、少し首を下げて網膜スキャンを行うと、ロックが解けてゲートがスライドし、左の隙間に納まった。 ヒトミは疑いなく遼介の後をついて行った。二人はエレベーターホールにやって来た。ヒトミは興味深そうに問いかけた。
「あなた住んでる部屋、確か最上階の90階よね?どうやって上がるかな?」
「エレベーターに決まってるだろ」
遼介の言葉を聞くとヒトミの脚が止まった。呆れた表情を見せ、戸惑う。
「えっ?」
遼介がエレベーターのスイッチを押す。六つのエレベーターのうち、一つのライトが点滅した。間もなくエレベーターが到着した。呼び鈴が響き、左真中のエレベーターの扉が開いた。
ヒトミは今開いたばかりの密室空間を見ると表情が硬くなった。心地は崖に立って、深淵を見下すような恐怖心だった。遼介はエレベーターに入り、90階のスイッチを押した。
「どうした?入らないと置いてくぞ」
どうやらこの男は私の異変に全く気付いていない。一体どれほど鈍感なのか、怒りながら中に入った。
「ち、ちょっと待ちなさいよ!」
扉を閉じると、ヒトミは深呼吸し、顔を上げてディスプレイの数字が段々増えるのを見て、無意識に手で遼介の袖を掴む。体が硬直し、呼吸が浅い。
数字がもっと速く上がるようにと心から望んでいるが、それに反して時間の感覚が妙に遅い。遼介がヒトミの異変に気付いた。
「どうした?」
ヒトミの額に汗がじっとり湿っている。こんな場所、破壊して脱出することは容易いが、正当な理由なく施設を破壊することは、機関の任務実行の準則で禁じられている。
恐怖症で生じるストレスにヒトミはきれず、遼介の体を強く抱き、頬を遼介の背中に貼り付けて苦しそうに言った。
「ごめん…少しこのままで良いかな?……」
遼介がヒトミの容態の違和感を気付いた。どうやら彼女の密室恐怖症が発症したらしい。しかし、今はどうしょうもない。美少女が自分を抱きしめ、背中に腕に柔らかい何かが密着している。慣れない状況に、遼介の顔が紅く染まっている。
近所の誰かに見られたらまずいことになる。ふと、エレベーターの速度が下がった。ヒトミは目を強く閉じ、苦しそうに問いかけた。
「今、何階?……」
「まだ59階」
エレベーターが60階で止まった。扉が開くと、いっぱいになったゴミ袋を持ったパーマ頭の中年女性が立っていた。遼介と目が合う。
「あら!光野君、彼女さん?綺麗なお嬢さんね〜!」
遼介は右手を伸ばし、否認しようとした。
「ち、違います……中島さん、これは!!」
スキャンダラスな事態に出くわし中島のテンションが上がる。遼介の言葉も虚しく、勝手に自分を見た事を違う方向に曲解している。
「ごめんなさい邪魔したわ!今の若い人は大胆ねえ!羨ましいわあ」
中島は楽しそうにその場を去った。ゴミ回収室へ向かって、行ったらしい。遼介は手を伸ばして、体を震わせながら否認を続けた。
「だから勘違いだって……」
扉が閉まった。この事件は明日から、このマンション中に面白おかしく広まるだろう。
「ったく!ご近所さんに勘違いされただろうが?」
ヒトミは、自分の弱みをこの男に知られてしまった。悔しさのあまりもっと強く遼介を抱きしめる。その綺麗な目に涙を溜めている。
「わ…私……こういう狭い所が苦手……」
ヒトミは過呼吸を起こしており、体が小刻みに震えている。あまりに苦しそうなので、遼介は彼女を責めるのをやめた。代わりに、なだめるように声をかける。
「大丈夫、ここは安全だ。ゆっくり深呼吸して」
ヒトミは遼介を放し、ヒトミは片目だけ開いて、両手を自分の胸に祈るように握り合わせ、背をくの字に曲げて呼吸する。悶えるように声を漏らした。
「うん……」
「着いたぞ」
エレベーターが最上階に到着した。扉が開くとヒトミは慌てて鋼鉄の箱から走り出す。 エレベーターから出るとすぐ側にある壁に手を置いて体を支え、頭を下げながら乱れる息を整えている。
「は…はぁ…はぁあ…ふう……」
遼介はスミレの背に手を置き、ゆっくりトントンと叩きながら声を掛けた。
「大丈夫か?」
ヒトミの呼吸が落ち着いた。遼介に触れられたのを気付くと、眼差しが急に鋭くなった。害虫を見るような目だ。ヒトミは急に肘で遼介の腹を撃った。
「ぐほっ!」
遼介は後ろに倒れ尻餅をついた。紙袋の中身が少し落ちる。わざわざ彼女を世話したのに殴られた。理不尽だ。大声をあげる。
「いきなり肘打ちなんてどういうつもりだ!?」
「き、気安く触らないで、この変態!」
遼介はこの女の思考回路が理解出来ず、強気に言い返した。
「あのなぁ!さっきエレベーターで勝手に俺にしがみついたのはお前だろう?」
「黙りなさい!それはあんたが仕組んだ罠なんでしょう?!」
「はぁ?!言ってる事がさっぱり分からないぞ!」
「あんたは、私が閉所が苦手なのを知っているから、わざとエレベーターに乗ったんでしょ?」
「そんなの知るもんか!悪戯する気もなかったし、このマンションに住む人間が
エレベーターを使うのは普通のことだ」
ヒトミは腕組みをし、そっぽを向いてぐちぐち呟いている。
「大体ね!こんな高い建物なのにどうしてワームゲートを設置してないかな!?」
アトランス界から来た住民にとって、当たり前の物がない。代わりに、ない物がある。ヒトミがアース界に来て二週間過ぎたが、慣れないことが多く、そのたびにカルチャーショックを受ける。そのストレスを一気に発散するように遼介にぶつけた。
「あれはまだ実験段階の技術だ。そんなの、普通の民間人が住むマンションに設置するわけないだろ」
「なによ……アース界の文明技術はいったいどれだけ遅れてる?……閉所恐怖症の人にとってはあまりにも不親切だわ!」
ぶつぶつと文句を並べるヒトミを見て、遼介は吹き出した。
「ぷっ!あははっ!」
真剣そのものだった。ヒトミにとって、それは予想外の反応だった。
「なによ!」
「怒る気力があるなら、お前はもう大丈夫だな?」
「何がおかしいのよ?!」
「それより後ろを見てみろよ」
遼介の言葉を聞いて振り向くと、ヒトミは仰天した。新東京大都会の夜景が広がっていた。雲の下の砂のような、数えられないほどの光は、まるで荒野で見上げる満天の星空のように美しい。いくつも浮かぶエアーステージにも光が灯っている。空をあちこち飛び交うマシンのヘッドライトは流れ星のようだ。
「どうだ?この300万ネオドルの景色は?」
ネオドルはアース連邦に唯一通用している貨幣である。前世紀の日本円に換算すると、1ネオドルは20円ほどだ。さっきからヒトミの中に溜まった怒りや嫌悪の気持ちは煙のように消えた。
「綺麗!!あんた、毎日こんな景色を見れる所に住んでるの?学生なのに贅沢だわ!」
遼介は床に落ちた紙袋の中身を拾って紙袋に戻しながら答える。
「家賃は全部自力で稼いでる。贅沢だって良いだろ?」
遼介は廊下を先に歩く。幅3メートルの廊下左右には大きなガラス窓があって、右側には大都会の景色、左側には日本式の枯山水庭園が広がっている。
庭園の外縁に沿って進み、左に曲がる。ヒトミは遼介の後ろを付いて歩く。彼女は不意に何かに気付き、遼介に訊ねる。
「この階、部屋が1つしかないの?」
遼介は扉の鍵に暗証番号を入力した。ロックが解除され、右手でドアを開ける。
「そう。スリッパ、いるか?」
「いらないわ!お邪魔しますね」
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