9.会話

 辿りついた十号棟、五十六号室の扉には後づけした南京錠が掛けられていた。

 受け取った鍵でそれを外し、深津は扉を開いた。

 闇に包まれた部屋の中には二つの影があった。

 一つは襖や扉が取り払われた部屋の中心に座っている。

 もう一つはその傍に身を横たえている。

 月の光が内部を朧気に照らし出し、ゆっくり顔を上げた相手の表情を浮かび上がらせた。


「藍野!」

「……深津か……?」


 深津は反応を見せた相手の元に駆け寄った。

 届いた声からは疲労が感じられるが、意識ははっきりしているように窺える。

 藍野は背後の柱に両腕を回され、拘束されている。深津は取り出したカッターナイフで両手首を括る梱包用バンドを裁ち切ると、隣で身を縮めて横たわる清菜に目を移した。彼女は疲れた横顔を見せて目を閉じていた。


「この先どうなるか分からなかったから、さっき少し眠るように言ったんだ。彼女に怪我はない。俺も大したことはない。喉は多少渇いているがな」

 自由になった手首をさする藍野に目を向けると、右頬に殴られた形跡がある。

 彼を拉致するために些か乱暴なやり方が為されたと分かるが、今は何も言えなかった。深津は無言で水のペットボトルを手渡した。

「救急車を呼ぶか?」

「いや、俺は大丈夫だ。でも彼女は分からない。彼女の立場上、一度どうするか訊いてからがいいように思うが、ここが安全でないなら先に移動を……」

「それは心配しなくていい。ここはもう安全だ。移動するにしても少し休んだ後か、清菜が起きてからでいい」

「……そうか」

 多少は安堵したのか藍野はようやく身体の力を抜いた。

 静寂の中で耳を澄ますと、清菜の寝息が聞こえる。

 そんな場合でもないのだが僅か気が緩むのを感じた。


「深津、訊いてもいいか? 彼女や俺に一体何が起きたんだ?」

「それは……」

「俺は金曜の夜、帰宅途中に殴られて、その後の記憶がないんだ。起きたらこの場所にいた。その上今夜は彼女まで同じ目に遭って、俺には何が何だか分からなかった。でもその中でも彼女は気丈だったよ。深津が来るまでまともな状態でいられたのは彼女のおかげかもしれない」

 自分達に何が起きたのか。

 藍野は隣に腰を下ろした相手に訊ねた。

 深津としてはその疑問に答えなければならなかったが、惑いを覚えた。

 今回の出来事はある男の狂気が自身に向けられたことに端を発し、彼らはそれに巻き込まれただけだ。

 しかし話し難くとも語らなければならなかった。

 深津は相手の疑問に答えた。

 雨夜の常連客であった東仙が連続殺人犯だったこと。

 そして彼が深津自身に執着するあまり藍野や清菜を拉致し、それを理由にここ、廃墟の暮林団地に呼び出したこと。

 起きた事実を語り終え、深津は隣を窺った。藍野は納得したような表情ともの悲しげな表情を過ぎらせた。

「話は分かった……でももう一つ訊かせてくれ。深津はここがもう安全と言ったが、どう考えても警察が来た気配はないし、もし来ているなら助けに来るのは警察のはずだ。深津は呼び出された後、この件にどう関わってどう解決したんだ?」

 藍野が抱く新たな疑問はもっともだった。

 だがそれには答えられなかった。

 深津自身も深手を負った東仙があの後どうなったか、分からない。

 死神男にどこかに連れ去られたとしても、さすがにそうは言えない。

 考え巡らせても納得させられる作り話も浮かばなかったが、このまま何も言わない訳にもいかなかった。


「いいや深津。やはりその話を聞くのは後でいい。少し休んでからにする」

「え?」

 焦燥が続く中、深津が不出来な創作話を始める前に藍野の声が届いた。

 藍野は言い終えると、背後の柱に寄りかかって目を閉じる。

 深津は隣でその横顔を眺めた。

 今自分は猶予を言い渡された訳だが、彼にはもうこの話を問うつもりがない気がしていた。

 こちらには都合のいい話でしかないが、それでいいはずもなかった。

 心には蟠りのようなものが残るだけだった。

「藍野、おい、まだ寝るな」

「どうした……深津」

「後で聞くって、それじゃ俺が納得できない。藍野は本当にそれでいいのか? 今すぐ問い質したいほど馬鹿みたいに怪しいと思わないか? なぜ俺が殺人犯に執着されたか、なぜ殺人犯から逃れて今ここにいるのか、どうして俺のせいで自分がこんな散々な目に遭わなければならなかったか、そんな呑気に構えてないでもっと罵るか、もっとその辺りを気にしろ!」

「俺は深津がいずれ語ってくれればそれでいい。それがいつでも構わない」

「あのな、お前はいつもそうやって俺を野放しにするからそんな目に遭うんだ! どうしていつも俺を肯定して、そうやって許そうとする? 俺は身元も経歴もはっきりしない、どう考えても怪しい男だ。お前は知らなくても、本当はどうしようもない屑野郎かもしれない! いや、実際そうだ! 俺がいたから藍野も清菜もこんな目に遭ったんだ!」

 声を荒らげても何にもならないのは分かっていたが、抑えられなかった。

 自分のせいで彼らを危険に晒した。

 それは変えられない事実だった。

 それなのに藍野は自分を許そうとしている。

 一緒に居続ければいつか不幸を招くとあの男に語ったのは、本心だった。

 どうしても断てなかった関わりを断つのは、今かもしれなかった。


「……藍野は死んだ友人に俺を重ねる必要はない。買い被りもいいとこだ。俺にはそんな資格もない」

「その話……群青から聞いたのか?」

「ああ」

「そうか……」

 藍野は闇の中で黙る。

 暫しの沈黙の後に再び声が届いた。

「深津、聞いてくれ」

「何だ……?」

「亡くした友人をお前に重ねていたのは確かだ……でも最初はそうだったが、今は違う。今は深津として見ている。お前を助けるつもりだったが、いつも誰かを助けようとしている姿を見ていて、そんなのは余計だったと感じた。何かを取り戻そうとするように誰かと関わりを持とうとする深津の姿に、俺も勇気づけられたんだ。俺は誰かを助けたかったんじゃなくて、助けられたかったのかもしれない」

「……藍野」

「お前はそう思ってなかったみたいだが、俺にはお前が必要だよ、深津。大事な友人だと思ってる。どうしようもない野郎とか言うな。お前はいい人間だよ」

 深津は何も言えなかった。

 自分こそ藍野の存在が必要だったが、それを言葉には出せなかった。

 立ち上がって窓辺に向かう。

 見下ろした闇には何も見えなかった。

 しかし夜が明ければ、そこに新たなものを見つけられるかもしれなかった。


「深……津……」

「藍野……?」


 背後から掠れた声が届いた。

 振り返れば、藍野の身体が床へとゆっくり向かっていくところだった。

 慌てて傍に駆け寄るが見下ろした表情には今程まで話していた形跡もなく、目を閉じた彼は身動きもしない。

 床上の清菜にも目を遣るが、彼女も息をしているのかすら分からなかった。


「嘘だろ……こんなの……」


 深津は身も凍る恐怖を味わうが、自身も身体が重くなっていくのを感じていた。

 我慢できずに目を閉じれば、意識も蒙昧とする。

 パトカーの音が遠くで響いていた。

 それが遠離っているのか、近づいているかも分からない。

 手繰り寄せようとしても離れていく意識を手放せば、記憶はそこで途切れた。

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