8.狂気

「その前に一つ聞かせてくれ。三年前、白石が死んだことになってたのはどうしてだ? それを教えてくれたら、俺は何でも包み隠さず話す」

「ああ、いいですよ、そんなことくらい。僕が捕まってしまった不覚のあの夜ですが、移送中に乗っていた車が事故を起こしたのです。僕はその際に逃亡したのですが、後に警察が事故時に僕が怪我をしたと発表したのです。怪我自体は大したものではなかったのですが、僕はそれを利用することにしました。その怪我が元でもう逃げられない、死ぬしかないと悲壮且つナルシシスム溢れる遺書をしたため、背格好が似たホームレスを探し出して、衣服を交換した後に彼には身代わりになってもらいました。相手の顔面や歯は念入りに潰して、死体も焼いておいたのでうまくいきました。世間から見捨てられ、忘れ去られていたあの彼も、人生の最後に僕の役に立つことができてよかったんじゃないでしょうか」

 男の言葉に深津は黙って耳を傾けた。

 まず犠牲になったホームレスには哀悼の意を送る。そしてこの話に新木戸が関わっていなかったと知って安堵した自分に苦笑を零した。


「分かったよ。それじゃ約束だ。俺のことを話すよ」

 深津は闇の中で自身が辿った経緯を語った。

 悪行を重ね、何も顧みないままこの世を去った。しかし再び生を与えられ、悪行の債務を支払うために善行を重ねなくてはならなくなった。

 語ったそれらは今も自らを苛む事実だが、言葉にすればたったそれだけのことだった。

 荒唐無稽でしかない話を男は興味深げに聞いていたが、深津は自分が死んだ経緯については語らなかった。ここで彼女の父親の話を持ち出して、汚れ切った過去を持つ自分達と同等に並べることは決してしたくなかった。

「俺の正体は一度死んだ男ってだけだ。今の話を信じても信じなくてもどっちでもいい。でも俺は真実を語った」

「いいえ! 信じないなんてとんでもない、非常に興味深い話でした! つまりあなたはそれまでの自分をリセットして、新たな自分になった。新しい名前、新しい姿を得て、違う人生を歩むことになった! 僕みたいに別人になり切った自分じゃない! 全く別の、だけど間違いなく自分自身なんですね!」

 歓喜の声を上げる相手を深津は冷めた目で見ていた。

 だからどうだというのだろう。

 根っからの殺人者である男には、この境遇が輝くものに見えるのか。

 どれだけの罪を背負おうともそれをものともしない人間には、理想的なものとしてしか映らないのかもしれなかった。


「死ねばまた与えられる、悪人なら尚更」

 届いた声に深津は目を向けた。

 そこには陶酔したような男の表情がある。

 懐から取り出されたナイフには、おぞましい予感しか浮かばなかった。


「やめろ、東仙! 何を考えてる!」

「私もやってみます。あなたはそこで見ていてください」

「やめろ! あり得ない!」

 制止は届かなかった。

 男は迷いもなくナイフを自らの腹に突き立てる。

 右に裂き、下に裂く。

 血が溢れ出すその光景は直視できるものではなかった。

 深津は男に駆け寄った。

 この男の生死などどうでもよかったが、その前に彼らの居場所を吐いてもらわなければならなかった。


「おい! 二人はどこだ? 清菜と藍野はどこにいる?」

「二人の居場所は……」

「どこだ!」

 倒れ込む男の胸倉を掴み、問い質す。

 男は閉じかけの瞼を開くと、もっと近くに来るよう指で示した。

「……二人の居場所?……そんなの……あなたに言う訳ないでしょう……? もちろん最初から言うつもりもありませんでした……ヒーローが助けに来て悪者はやっつけられて、人質は助かってめでたしめでたし?……そんなの死ぬほどつまらないでしょう……もしやそれを期待してました……? 本当に死ぬほどお人好しで間抜けな人間なんですね、あなたは……」

 目の前の男以上に血の気が引くのを深津は感じた。

 男が死ねば二人の居場所は分からない。

 この広大の団地のどこかにいるかもしれないが、別の場所かもしれない。もしかしたら永遠に発見不可能な場所かもしれない。

 深津は床の上で半笑いを浮かべる男を見下ろした。

 どうせこの男はじきに死ぬ。

 それなら何をしたって構わない。残り僅かな命を縮める結果になっても、自分はこの男から居場所を訊き出さなければならない。

 右足をゆっくり上げ、今も血が溢れる腹部に近づける。

 踏みつければこの男でも悲鳴を上げるだろう。絶叫する男にじわじわと痛みを与えて必ず居場所を……。


「それはあまりよくないですねぇ。善行とは真逆の行為です」

 その声に深津は動きを止めた。

 振り返れば闇に立つ男の姿があった。

「新木戸……」

「すみません、遅くなりまして。上と話をつけるのは毎回難儀な作業です」

「お前が……新しい命を……?」

 現れた男は変わらぬ笑みを浮かべる。

 床上の男は相手を見上げて呟く。

 深津は隣に歩み寄った相手に言葉を投げた。


「新木戸、邪魔しないでくれ。俺は奴に二人の居場所を訊かなきゃならない」

「分かってますよ、そんなこと。ですが深津さんは少しの間表に出ててもらえませんか」

「そう言ってお前は奴に……」

「深津さん、早く出てくれって言ってるんですよ。あなたにはあまりこういう姿を見られたくないんで」

 言葉が届くと同時に深津は違和感を覚えた。

 気づけば部屋の外に立っていた。

 すぐに戻ろうとするが、扉には鍵が掛かっている。

 直後、中から悲鳴が聞こえた。

 断末魔のような叫びは東仙のものだった。

 それが途絶えると扉が開き、死神のような男が顔を出す。

 顔に飛び散った血を取り出したハンカチで拭った彼は、「十号棟、五十六号室です」と告げた。


「深津さん、その場所に向かってください。清菜さんと藍野さんの居場所です」

「それは分かってる。でもあいつはどうなる? あんたはあいつにも俺と同じように善行を重ねさせるつもりか?」

「そう思います?」

「あんたが来たのはそのためじゃないのか?」

 問いかけると、相手は答えずに微かに笑う。

「深津さん、これは言うか言うまいかずっと迷ってたんですが、今言います。〝あの日に起きた事故は白石が引き起こしたもの〟です。不意を突いて上原刑事の背後から襲いかかり、ハンドル操作を誤らせたのが要因です。しかしそれを知ったところで深津さんの心が軽くならないと分かっていたのでこれまで語らずにいましたが、言うなら今夜でしょう」

 深津はそれに何も答えなかった。

 今ある思いは相手が語った通りでしかなかった。

「人の心は脆いものです。簡単にどちらにも傾く。何をしてでも居場所を訊き出そうとした今夜の深津さんにもその兆しはありました。先程の質問の答えですが、『まさか』です。見込みのない魂にそんな道は与えませんよ、私も暇ではないので。ですが深津さん、今夜のことはよく覚えておいてください。私はいつも見ています。あなたの良いところも悪いところも。それはこれからも変わりません」

 言い終えた新木戸は扉を閉じる。

 が、すぐにまた扉は開いた。

「あ、それとこれ、持っていってください、部屋の鍵です。多分こっちの二つも必要になります」

 小さな鍵と水のペットボトルとカッターナイフを差し出した相手は再び扉を閉じる。

 途端重い扉ががたがたと揺れ、それが収まると静かになった。

 中で何が起こったのか分からない。

 しかしもう二度とあの男が殺人を繰り返さないことだけは確かだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る