7.質問

 降車すると、タクシーは逃げるように去っていった。

 時刻は既に十時。走り去る車のテールランプが視界から消えると、深津は闇の中を歩き出した。

 無人の地に点在する街灯はあまりにも少なく頼りなく、道は平らであるはずだがどこまでも下っていく気がする。

 道の終わりに現れた建物群は闇に潜む寡黙な獣のようだった。

 暮林団地十一号棟、その三十二号室。

 暗い階段を上りながら、どこにも行き着かないのではとそんな疑念も過ぎらせる。

 本日二度目の訪問となる三十二号室の扉は、相手を待ち受けていたように風に吹かれて揺れていた。


「ああ、深津さん、遅かったですね」

「二人はどこだ?」

 歩み入った深津は窓際に立つ相手に問い質した。

 正体を知った以上、余計な会話は不要だった。

 闇の中で男は笑みを浮かべる。

 いつもは陽気だった声が今はもう冷淡にしか響かなかった。


「あのですね深津さん、そうやって威圧的になれる立場じゃ、もうとっくになくなってると思いますよ」

 ひび割れた窓からは湿った風が吹き込んでいる。

 男の香水が香るが、傍で漂う死臭と混じり合う。

 この男がいつも香りを纏っていたのは、染みつく腐臭を誤魔化すためだったのかもしれなかった。

「二人は無事か? 約束は守ったろ? 俺をここに来させるのが目的なら二人にもう用はないはずだ」

「深津さん、安否に関しては何もしていないと先程も告げたはずです。二度も言わせないでくださいよ、無駄が多いですね。それと僕の目的は確かにあなたをここに呼びつけることですが、これで終わった訳でもないんです」

「まだ何があるって言うんだ?」

「その前にお話を一つしましょうか、深津さん。あなた、僕達が出会った日を覚えてますか? 僕と清菜さんとあなたが出会ったあの夜のことです。僕は顔を変え、名前を変え、あの日まで過去から遠離って生きてきました。しかしあの夜、自らの運命を変えた男の娘に出会って、彼女のあの柔らかな手を握って、その時に自らの中で失われようとしていた殺人の衝動を取り戻すことができたのです。あなたに感謝していると前に言いましたが、要はそのきっかけを作ってくれたのがあなただったのですよ、深津さん。聞けば誕生日の祝いに彼女をあの店に連れていく約束をしたのが、あなただったと言うじゃないですか。けれどそれだけじゃないんです。あなたには僕に似た〝何か〟を感じたのです」


 深津は言葉を失っていた。

 繰り返された殺人や今回の出来事。直接的ではないにしろ、全ての始まりを作ったのは自分だった。

 自分の行動が元でこの男の殺人を再開させ、罪もない新たな犠牲者達を生み、清菜と藍野を危険に晒した。

「僕の真の目的はあなたと話をすることです。僕があなたに質問する。あなたがそれに答えて僕の欲求と興味を満たしてくれれば、二人の居場所など喜んで教えますよ」

 深津はよろけるように窓辺に寄りかかった。

 男の要求を拒絶できるはずなどなかった。

 全ての元凶である自分には、それに応える選択肢しかない。

 相手を力ない目で見返すと、男は闇で微笑んだ。

「まず最初の質問です。僕があなたに感じた〝何か〟ですが、その根幹は思うに、罪を背負う者の気配です。僕が知りたいのは、あなたがその裏で常に感じ続けている後ろめたさとも言うべきものの詳細です。罪自体の存在は理解できても、そこにある感情は、完璧な僕には予測もつかないことなのですよ。それをぜひこの僕にも分かり易くご享受願いたい」

 全てが悪い冗談と思いたかったが、逃れることはできなかった。

 深津は一度目を閉じ、自らを省みた。

 あの時もこの時も、自分は選択を間違ったのではないか。その間違った選択の結果が今この廃墟に集結している。

 闇にあの深い墓穴の気配を感じる。

 今夜男に問われることが自分に下された新たな罰なら、受け入れなければならないものでしかなかった。


「……俺は昔、よくないことばかりをしてきた……だから今こうして藍野や清菜といられることに後ろめたさを感じている。説明するほど大それたものはない、あるのはそれだけだ」

「ふむ。そうですか。ですが僕にはその〝よくないこと〟の中身が伝わってきません。もっとよく分かるようにちゃんと言葉にして言ってもらえます?」

「暴力や盗みだ……それに対して何の罪悪感もなかった。俺は正真正銘のクズだ……」

「なるほど、だから藍野さんや清菜さんのような善人の中にいると、悪人でしかない自分が嫌になるってことですね。そこまで自分を卑下することも罪悪感がなかったことに罪悪感を感じることも、僕にとっては意味不明ですが、よく分かりました」

「分かったならもういいか……?」

「いえ、まだです。次の質問です。あなたを見ていると時に彼らと関わりを持ちたくないと思いながらも、やっぱり関わりを持とうとしてしまっているように見えるのです。その馬鹿げた矛盾について教えてください」

 男が責め苦を生業とする地獄の番人のように見えた。これまで目を逸らしていた部分をこの相手は確実に突いてくる。

 この数ヶ月を思い出すように深津は答えた。


「それは俺が彼らを好きだからだ……だから一緒に居続ければいつか不幸を招くと心で思いながらも、関係を断てなかった。矛盾なんかじゃない。俺の心の弱さがあるだけだ」

「ふんふん、そうですか。よく分かりました。今の答えは自虐も織り込まれていて、なかなか素晴らしいものでしたよ。できればもう少し自身をさらけ出してくれる方がよかったですが、まぁ及第点です。あなたが自己中で不完全な悪人であることはよく分かりました」

「……満足か?」

「ええ、では次はお望みの最後の質問です。深津さん、あなたは何者ですか? この世のどこを捜しても『深津怜』という人間は存在しません。世界中を捜してもです。一体あなたはどこのどなたなのでしょう?」

「何を言ってる……?」

「蛇の道は蛇。僕には分かるんですよ。だから調べさせてもらいました。そうしたらあなたには過去というものがないんです。どこで生まれ、どこに住み、どんな人生を送ってきたのか何一つ示すものがないのです。どんな人間にも存在の痕跡は残るものです。慎重に過去を抹消してきた僕にも残念ながらあります。誰しも僅かながら痕跡を残してしまうものなのです。しかし深津怜という人間の存在を示すものは何もありませんでした。三年前に突如として存在し始めた人間でしかないのです。深津さん、僕に教えてください。あなたは何者ですか? いえ、僕が知りたいのはあなたの〝正体〟です」

 この相手にその場しのぎの嘘を並べても、通用しないのは分かっていた。

 深津は深く息を吐いた。

 どうせ真実を言ったところで、信じてもらえるかも分からない。

 ならばありのままを話せばいいと思った。

 それを理由にもし罰を受けるというなら、それでも構わなかった。

 二人を助けるために自分が何もしないのは、罰以上のものでしかない。

 でも最後に一つ確かめたいことがあった。男の言動から既にそれはないと感じていたが、確かめておきたかった。

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