6.危機

 

「……今から雨夜か?」

「はい、実夜さんの顔を見に行こうと思って。ちょっと久しぶりです……」

「そうか、俺は昼間も行ったばかりだな」

「そうですか……」

「そういえば仕事の方はどうだ?」

「ええ、はい、どうにかやってます。あの……」

「何だ?」

「いえ……」

「……」

「あの……言いかけたのでやっぱり言います。前にお伝えしてたお墓参りですが、予定通り明後日に行くつもりです……明日から二日間オフなので。えっと、それで……いえ、すみません、やっぱり何でもないです……」

「……そうか」

 会話は途切れ、気まずさが増しただけだった。

 彼女との溝を深津は感じるが、それは向こうも同じはずだった。

 でもそれ以上に彼女の方から、距離を置こうとしているのも感じる。

 そうすることは時に自らも望んだものだったが目の当たりにすると身勝手なもので、取り残されたような虚しさも感じる。


「あのすみません、深津さん、電話が鳴ってるみたいです」

「あ、ああ、本当だ、すまない」

 いつの間にかポケットの中で電話が鳴っていた。深津は動きも鈍く電話を手に取るが、相手を確かめた直後に飛びつくように出ていた。

「藍野!」

 だが出ると通話は切れた。

 慌てて掛け直すが掛けてきたばかりというのに向こうは出ない。耳元では呼び出し音が続くが、それとは別に近くで電話が鳴っている音がしている。

「清菜、どこかで電話が鳴ってないか?」

「え、ええ、鳴ってます。あっちの方でしょうか」

 清菜は今来た住宅街に目を向ける。

 その方に深津が足早に歩み寄ると、彼女も後を追ってきた。

「深津さん、どうしたんですか? もしかして藍野さんに何かあったんですか?」

 清菜が不安そうに声をかけてくる。

 彼女の疑問はもっともだが、深津自身もどう答えていいか分からなかった。

 ただ不穏な予感が継続しているのは確かだった。

 電話の音は住宅街の路地から響いていた。

 細い路地を覗き込むと、築年数の経った家々が建ち並んでいる。

 その奥にはもう使われていないだろうが、古びた井戸が佇んでいるのが見えた。


「清菜はここで待っててくれ」

 深津はその場に清菜を待たせると、奥に進んだ。

 向かう先に人影は確認できないが、確実に電話の音は鳴っている。

 厳重に蓋をされた井戸の陰、呼び出しを続ける藍野のスマートフォンが落ちている。

 深津は電話を切ると、それを拾い上げた。

 途端鼻腔を記憶のある香りが掠めていった。

 漂ったのは、あの男がつけていた香水の香り。

 ここで今何が起きているのか、深津は混乱する。

 しかし所在を心配し続けた相手が、あの男と接点を持ったのは確信する。

 住宅街は再び静寂に包まれ、黒い猫が屋根伝いに走っていった。

 深津は無言で路地を戻るが、そこには誰の姿もない。

 右を見ても左を見ても、待っているはずの清菜の姿はどこにもなかった。

 彼女が何も言わずにいなくなるはずはなかった。

 再度電話が鳴る。

 彼女からの電話を深津は迷わず出た。


「清菜! どうした?」

『残念、清菜さんではなく、僕です』

 平坦な声が耳元に届いた。

 感情もなく響く東仙の声はこちらの焦りをより誘う。

 彼女を一人にするべきではなかったと後悔が過ぎるが、既に遅い。その悔恨を押し退けるように背筋が冷えていくのを感じたが、それが絶望だとは肯定したくなかった。

「清菜はどこだ? お前、彼女に何をした? それに藍野もだ。藍野の電話をあの場所に置いたのは東仙、お前だろう! 一体お前は……」

『ええ、彼女とご一緒させてもらっているのは確かですが、何もしてませんよ。もちろんご友人の藍野さんにもです。清菜さんに関しては初めてお会いした時に僕、彼女のファンだと言いましたよね? そんな彼女に僕が何かをする訳などないでしょう? 大事な父親を失って、それでも悲しみにも負けずにひたむきに頑張る彼女の姿は本当に胸を打ちます。たとえその父親が死の間際まで僕を追い詰め、逮捕した男でもね』

 深津は何も言葉を発せられなかった。

 あの男を逃がすなと繰り返しながら、目の前で息を引き取った彼女の父親。

 だが彼が追っていた殺人犯、白石環次も死んだはずだった。後日新聞に載った顔写真は今でも覚えている。東仙とは全くの別人だった。

 しかし今、二人が同一人物であると語られたも同じだった。

 けれどもなぜこの男が今もこうして生きているのか分からない。

 東仙の住所を知らせてきた新木戸。

 もし……この男も贖罪のために二巡目の生を生きているとしたら辻褄が合う。

 それを新木戸が元から知っていたとしたら……。


「あんたは自分が白石環次だって言うのか? でも白石はもう死んだはずだ。お前とは顔貌も違う」

『ああ、深津さんは〝彼〟のこともよくご存じなんですね。まぁ彼女の保護者気取りのあなたなら、それくらい余裕で知っていましたよね』

 小馬鹿にしたような声の背後に車のエンジン音が聞こえた。

 男が運転しながら電話しているのは間違いなかった。

 男の目的が分からなかった。

 刑事の娘である清菜に執着しているのは確かだ。自分や藍野まで巻き込んだのはただ彼女の近くにいたからか。

 届く声からは出会った頃の印象は既に感じない。

 少々お喋りが好きな気さくな中年サラリーマンと思っていた相手は全く予想外の人間でしかなく、今はその背後に深く不気味な闇を感じるだけだった。


『ところで深津さん、あなたは自分がどんな人間だと思ってますか?』

「いきなり何のことだ……」

『僕は自分を完璧な人間だと思ってます。あなたはこの話をご存じですか? 僕はどこかで聞きました。所謂法律や規則というものは完璧とは程遠い人間のために存在するものなのです。ならばそれに当てはまらない完璧な僕には、法律や規則など必要がないと思いませんか? だから死んだはずの僕が生きていることに、取るに足らないあなたが疑問を持つのは愚かなことでしかないのです』

 深津は何も言葉を返せなかった。

 この男が何を言っているのか全く理解できなかった。

 しかし僅かでも理解できたとしても、この男に向ける言葉などもう何もないのかもしれなかった。

『僕は先に行ってお二人と一緒にお待ちしてますよ』

「待つって一体どこでだ?」

『どこって、あなた、今日訪ねたでしょう?』

 冷たく響いた声を残して通話は断たれた。

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