5.暮林団地十一号棟 三十二号室

 深津は歩き出すと電車とバスを乗り継ぎ、メモの場所に向かった。

 東仙への疑惑はあの夜から確実に自分の中で巣くっている。

 その疑惑を解消するために自ら働きかけなければそれはなくなることもなく、もしかしたら増長を続けているかもしれない。

 それに自分はともかく、今後周囲に危害が加えられる可能性があるならその前に必ず排除しなければならなかった。そのやり方が今は分からなくても、自分ができることからやっていくしかなかった。


 目的地に近づく毎にバスの乗客は減っていった。

 終点は目的地手前の住宅地だったが、降りたのは深津とここの住人らしきもう一人だけだった。

 ここから先は徒歩で行くしかなかった。メモの場所は初めて訪ねる場所だったが、この先に人の住まなくなった団地しかないのは知っていた。

 街灯も僅かな道を二十分ほど歩き、目的地に着いたのは夕刻前だったが辺りは既に日が落ちたように暗かった。しかしそう感じただけかもしれない。

 高度成長期の象徴だった場所は今は廃墟と化している。

 色褪せて崩れかけたコンクリート、雑草だらけの歩道。建物のガラスは大半が割れ、剥き出しの部屋の中は墨を零したような闇が続いている。

 深津は手元のメモを見直した。

 暮林くればやし団地十一号棟、三十二号室。

 見上げた建物の側面に黒々と記された番号を頼りに十一号棟を探し当て、携帯電話の明かりで足元を照らしながら三階に向かう。


『東仙』


 辿りついた三十二号室の扉には、周囲の様子より格段新しい紙の表札が掲げられていた。ノックしようとしたが無意味と考え、そのままドアノブを捻ると抵抗なく扉は開いた。

 踏み込んだ部屋には誰もおらず、何もなかった。

 特に荒れ果ててもいない代わりに、がらんとして何もない。

 あったのは空のペットボトルや食べ終えたコンビニ弁当の残骸。漂う臭いの元はこれだったのかと深津はもう一度辺りを見回す。

 カーテンも襖もない無人の部屋は寒々としている。

 ここにあの男とその妻子が仲睦まじく暮らしていたとは、到底思える訳がなかった。


「全部、嘘だったってことか……?」

 疑惑の奥に残存していた家庭人としての東仙の姿は消えていた。

 彼が見せていたのは虚像でしかなかった。

 その仄暗い事実に喉元を締められるような息苦しさを覚えて深津は部屋を出ようとしたが、窓際に置かれていたものに気づく。

 白い菓子箱。

 それはあの夜、東仙が持っていたものだった。

 見遣った箱の底は記憶通りに赤黒いもので染まっている。

 深津は歩み寄ると、屈んでその蓋を開けた。

 途端広がった腐臭には顔を顰めるしかなかった。

 箱の底には女性のものと思われる一本の指が置かれていた。

 華奢な指輪をはめた指は、既に腐敗が進んでいる。

 静かに蓋を閉じ、深津はその場を離れた。

 闇が増す階段を下りながら考えたのは、疑惑が確信になったことだった。




******




 団地を出た深津は再び雨夜に向かっていた。

 東仙への疑惑は確信になったが、その上で自分がやればいいのはあの場所で見たものをただ誰かに伝えることだった。

 怪しい身元しかない身としては警察とは極力関わりを持ちたくなかったが、保身に勤しんでいる場合でもない。

 殺人の容疑者が、こんな間近にいる事実を放っておくことはできなかった。

 でもその前に確かめておきたいこともあった。

 藍野の所在だった。

 できることなら彼の声を直接聞いて、その無事を確かめたかった。

 偶然東仙と会った夜、あの男は自らの疑惑を敢えてこちらに向けた気がしてならなかった。

 目的は分からないが、もしそうしなければならない理由があったなら、現在起きている身の回りの変化を見直さない訳にはいかなかった。

 警察に届けるのは藍野の無事を確認し、あの男と無関係だと示した後だった。


 雨夜に向かいながら深津は藍野に再度連絡したが、やはり携帯電話の電源は落とされている。到着までの時間をもどかしく感じながら実夜にも電話したが、店が忙しいのか呼び出し音が続くだけだった。

 実夜の元に向かっていたのは、付き合いの長い彼女なら藍野の実家の番号を知っているかもしれなかったからだった。藍野と最後に会った父親に詳細を訊ねて何が得られるか分からなかったが、今のところ他に手立てが浮かばない。

 電車を降り、雨夜への道を急ぐ。

 団地を往復する間に時刻は八時を過ぎていた。

 周囲の住宅街は静かで、道を歩く人も時折通るだけだ。どこかから流れてきた夕食の温かな気配が現状の微かな癒しだった。

「深津さん……」

 その声に深津は足を止めた。

 誰の声かはすぐに分かったが、今は最悪のタイミングでしかなかった。

「清菜」

「……こんばんは、深津さん」

 深津は歩道に立つ彼女の姿を目に映した。

 顔を見るのは、墓参りに行くのを断って以来だった。

 挨拶は交わしたが続く会話はない。互いの間にはこれまでなかった気まずさが漂い、感情は逸るだけだったが、自身が感じ続けている不穏を彼女に伝染させたくなかった。

 再び歩き出すと彼女は隣に並ぶ。

 何も言わない訳にはいかず、深津は当たり障りのない言葉で話しかけた。

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