2.実夜の頼みごと

 翌日、深津は雨夜にいた。

 時刻は午前十一時、昼食目当ての客もまだおらず、店にいたのは実夜だけだった。

 昨夜は様々なことが頭を過ぎり、なかなか眠りにつくことができなかった。

 今更やって来た眠気を追い払うように深津はコーヒーを喉に流し込んでいたが、不意に実夜が改まった表情で呼びかけた。


「怜、実はお願いがある」

「急にどうした、実夜」

「頼まれ事を幾つか預かっている。それを今日中に終わらせたいが、どれも一人では少し無理そうだ。できれば怜に手伝ってほしい」

「ああ何だ、そんなことか。俺は暇だし全然構わないよ」

 深津は答えてカウンター越しの相手に軽く笑いかけた。

 雨夜で引き受けた頼まれ事は基本実夜か自分か、どちらかが行っている。

 二人がかりでやるのはこれまでになかったが、しかしだからとそれを理由に断ることもない。

「けど、今日中ってことは今からか? 店はどうするんだ?」

「臨時休業にする。早めに終われば戻って営業することにするよ」

 実夜は答えると外に出て、表の札を休業に裏返して戻ってきた。

「怜は先に外で待っててくれ。私も用意を終えたらすぐに行く」

「分かった」


 深津が外で待つと実夜はじきに出てきた。臨時休業の旨を伝えるボードを掲げるその背に深津は問いかけた。

「依頼は幾つかあるって言ってたな。まずどこから行く?」

野村のむらさんの家だ。ここから歩いて五分ほど」

 店を離れ、案内する実夜と昔ながらの住宅地の方へ徒歩で向かう。

 五分弱で着いた野村家は、築四十年くらいの古い家屋だった。

 呼び鈴を鳴らすと「はーい」と家の中から声が届く。でも家人はなかなか姿を現さない。数分の後に顔を出したのは、雨夜でよく見かける常連の婆さんだった。

「こんにちは野村さん。頼まれてた蛍光灯の交換に来ました」

「あらまぁ、実夜ちゃん、早速来てくれたのね、どうぞ入って」

 そう言って足の悪い婆さんはゆっくり三和土に上がると、ゆっくり廊下を戻って、奥の座敷に案内する。古い家であるのは外観通りだったが通った廊下も、亡くなった連れ合いの写真が見下ろす座敷も、驚くほどきれいに片づいている。古びていてもそこかしこに住人の愛着が感じられる家だった。

「年寄りの一人暮らしだとこういうのが困っちゃってねぇ。お爺さんが今もいてくれたらよかったんだけど」

「これからも何でも言ってください。できる限りのことはしますから」

「本当にありがとうね、実夜ちゃん。美山さんがいなくなった時、どうしようかと思ったけど実夜ちゃんがいてくれて本当に助かってるわ」

 美山というのは実夜の前に雨夜を経営していた女性だった。実夜は彼女から店を引き継いで、頼まれ事を受けていたのも引き継いだ。深津は時にそのおこぼれに預かるだけだが、実夜は積極的継続的に店の常連や近所の人達と関わりを持っている。


「新しい蛍光灯は買ってあるの。だから交換だけなんだけど、えーと、踏み台と蛍光灯は隣の納戸に……」

「それは俺が取りに行くよ」

「あらそう、悪いわね。あなたは確か……」

「俺は深津です。雨夜の常連で実夜の友人です」

「そうそう。お店でたまにお見かけするのよね。映画俳優みたいで素敵な方だと思ってたの。それじゃ深津さん、悪いけどお願いするわね」

 お世辞の上手い彼女の代わりに深津は納戸に向かった。

 整然と物が並ぶ中から蛍光灯と踏み台を取り出し、座敷に戻るとそのまま交換する。照明器具の紐を引っ張って座敷が明るくなると、「これでお爺さんの顔もよく見えるわ」と言った依頼人の顔も明るくなった。

 数分足らずでこの家の依頼は完了したが、基本実夜は実費以外のお金を貰わない。今回のここは交換のみであるから、野村の婆さんには手厚いお礼を戴いて家を後にした。


「次は障子の張り替えだ。この近くで青果店をやってる佐久間さくまさんの家。娘さんの婚約者が週末に来るらしいが、古い障子を張り替えたくても忙しくてできないそうだ」

「で、代わりにってことか?」

 頷く実夜と今度はそこから通りを二本跨いだ先にある佐久間青果店に向かう。

「いらっしゃい! あっ、実夜ちゃん」

 到着し、接客の合間に和室に案内してもらう。張り替える予定の障子は八枚。実夜は手慣れたものだったが、深津はそこそこ苦戦した。

 小一時間ほどで佐久間家の依頼も終え、次に向かったのは住宅街から少し離れたリカーショップだった。そこで缶ビールを二ケースとおつまみ的なものを数点調達し、依頼人の家に届ける。

 届け先の家から出てきたのは、大勢の親戚が月末に来客予定の妊婦だった。

 次の依頼は犬の散歩。他は数日中の依頼だったが、これは事前に合い鍵を預かっていた今日限定の頼まれ事だった。

 依頼主は出張が急に入った二十代の会社員。

 彼の愛犬、フレンチブルドック、マイケルの日常散歩コースを巡るが、リードを持つ実夜の背を見ながら深津は今更のように考えていた。

 確かに缶ビール運びの依頼に人手は入り用だったが、それ以外は実夜一人でも可能なものばかりだった。一人では無理と言ったが、彼女なら決してできないはずはない。

 今日の出来事に無論異論申し立てはないが、疑問は残った。

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