4.深闇の底に

1.変わっていくのなら

「一度、実家に帰ってこようと思う」

 藍野がそう告げたのは月曜の朝のことだった。

「ああ、分かった」

 深津はそう答えて、藍野の作った味噌汁を黙って飲んだ。


 でも実際それ以上の返事などなかった。

 藍野は自らの行動に遠慮したり、気兼ねする必要などない。好きに行動していい。彼の生活に入り込んでおきながら言う言い草でもないが、その辺りから目を逸らし続けてこの数ヶ月やってきた部分はある。

「心配はしなくていい。金曜日には戻ってくるつもりだ」

 そう続けられた言葉に深津は再度の自問自答に引き戻される。

 藍野の良心につけ込んで今の生活を続けている。

 多少の生活費は出しているが、自分がいるせいで彼の日々の選択肢を狭めているのは確かだ。そのことを改めて考えさせられる。

 もし藍野が今の生活をやめて実家に戻る選択を最終的にしても、自分のせいであれやこれや考えなければならないことが増える。自分が最初からいなければ、元から全くいらなかった手間だった。


「何を考えてるんだ? 深津」

「別に」

「お前、数日前から様子が少し変だな。先週清菜ちゃんと雨夜で会った時ぐらいからだ。まだあの時のことを気に留めてるのか?」

「違うよ、別の話。藍野は気にしなくていい」

「そうか?」

「そうだよ」

「分かった。それならもう言わない」

 話を終わらせたい空気を最大限に放ったおかげで、会話は途切れた。

 ちょうど朝食も食べ終えた藍野は器を手に流し台に向かう。

 その背を見ればこのまま終わらせていいのかと今更過ぎるが、それを取り繕える自信もなければ、そんな度量も元々ない。しかし深津は自身の被害者妄想的拒絶を自覚しながらも、その背に声をかけた。

「藍野、もう仕事に行く時間だろ? それ、俺が片づけておくから」

「へぇ、珍しいな」

「俺だってたまにはやる」

「ならお願いする。それと今日は仕事が終わったらそのまま新幹線で実家に向かうから、家には金曜まで戻らない。留守を頼む」

「分かったよ、任せろ」

「それじゃ、行ってくる」

「ああ」

 藍野は会社の鞄と前日から用意していたらしき小振りな旅行鞄を手にすると、出勤していった。


「今日から金曜まで、四日は一人か……」

 思えば藍野が日を跨いで家を空けるのは珍しく、このように留守を預かるのは深津が彼の部屋に住むようになって初めてのことだった。

 今生の別れではないが、改めて呟けば見知らぬ場に置き去りにされたような思いに襲われる。でも留守を任されたと改めて思えば、なぜだか急に何かをやらなければならない気分にも追い立てられる。

 深津はまず宣言通り、台所の後片づけを始めた。生前は全くと言っていいほど縁遠い作業だったが、藍野と同居するようになってまあまあ慣れた。

 食器や鍋を洗い終えると、次は部屋の掃除に取りかかる。

 藍野の部屋は、やや昭和感漂う1DK。藍野はこの部屋唯一の個室を使っているが、深津は彼に譲られたソファベッドを部屋の端に置いて寝床にしていた。

 八月も末になり、照りつけるような陽射しからは遠離ったが、代わりに程よい光が降り注いでいる。

 窓を開け、愛用のタオルケットをベランダに干し、部屋の空気を入れ換える。

 ほぼ自分の巣と化したソファ周りを中心に念入りに掃除機をかけると、大分すっきりした。ついでに私物の整理を始めるが、終えてみれば必要な持ち物は段ボール一箱に収まるほどだった。

 掃除を終わらせて見渡した部屋は、随分こざっぱりしていた。

 今手にしている段ボール箱一つ持って出れば、簡単にこの部屋から去ることもできる。

 もし藍野が戻った時、自分がいなかったらどう思うだろうと深津は考えた。

 何も言わずに家を出るなど不義理な行いはしないが、いずれそうすべき時も来るのではないかと思った。


「あ、そうだ、忘れてた……」

 十二時近くになり、昼飯の算段をしていた深津は昨夜新木戸の呼び出しがあったことをようやく思い出していた。

 約束の十一時はとっくに過ぎていたが、このまま無視して行かない訳にもいかない。

 戸締まりをし、いつもの道のりを辿ってホテル海溝に向かう。その道中で日が翳り始め、タオルケットを取り込んでから出かければよかったと悔やみ始めた頃にホテルに着いた。

 変わり映えのないひと気のないロビーを横切ってエレベーターに向かおうとすると、背後から呼び止める声が届いた気がした。

「何だ……?」

 訝しく思いながら振り返ると、薄暗いフロントにぼんやりとした何かが立っている。

 その何かがカウンターの上を指し、そのまま消えた。

 近寄って確かめた場所にはホテルの名が印字された白い封筒がある。宛名は自分、差出人は想像通りの名になっている。

 封筒の中には一枚の便箋、意外なほど達筆な字で、『所用で古巣に戻るのでしばらく不在にします』と書かれてある。

 呼びつけておきながらいないとは、と深津は一瞬思ったが、別段あの男に会いたい訳でもない。彼の顔を見なくていいのはどちらかと言えばいいことでもある。

 深津は封筒ごとポケットに押し込むとホテルを出て、雨夜に向かった。

 時刻は二時になるが、実夜ならこの時間でも何かを出してくれるはずだった。

 けれど到着した自分を出迎えてくれたのは、店の扉に掲げられたメモボードだった。

『外出してます 三時には戻ります』

 ボードの時刻部分には幾度も書き換えた名残がある。雨夜を一人で切り盛りする実夜が書き置きを残して店を離れるのは、珍しいことではない。

 少し待てば彼女は戻るはずだが、深津は足を自宅に向けた。

 確か台所にインスタントラーメンの買い置きがあったのを思い出す。随分寂しい昼飯になってしまったが、昔の自分を思えばこれが日常事だった。


 いつもあるはずだったものがない。

 藍野は実家に戻り、実夜は店を空けている。

 ついでに仲間に入れてあげれば、新木戸もいない。

 どれも一過性のものであるが、この変化を立て続けに感じれば微妙な気分を味わう。

 インスタントラーメンの食事のように昔に戻っただけと思えば、そう言えるものでもあるが、以前と違うものを手に入れてしまったことで僅かでもそれがないのを感じると、物足りなくなる。

 でもそれは強欲とも言える。

 それと同様に清菜の頼みを断ったと悩み続けているのも、彼女の信頼を損ねてしまうと感じているから引き摺る。

 その結果清菜が離れてしまっても、それは受け入れるしかない。

 もしたとえば藍野が実家に戻る決断をしたとしても、いつか実夜が店を畳む選択をしたとしても、ただ受け入れるしかない。

 彼らとは一時いっとき重なっただけで、いつかは離れていく運命でもある。

 彼らが求めた変化を拒絶して、一方的な強欲さでしがみつくのは間違っている。

 自分が変わらなくても周囲が変化していくなら、抗わず受け入れる。

 だが心ではそう思っても、思い切れない自分がいるのも確かだった。

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