8.既視感

 最寄りの駅に着いた頃には、辺りは暗くなっていた。

 辿る家路は普段使わない路線で戻ったのでよく知らない道だった。

 深津は歩きながら通りがかった大きな公園を覗くが、広場には誰の姿も見えない。

 夕闇に浮かび上がった遊具が時折吹く風に揺れ、物寂しさを醸していた。


 初秋の様相が訪れるのが今年は早いと、深津は思った。

 盆が過ぎれば季節の変わり目を感じるのはいつものことだが、冷夏でもなかったのに今年は特に足早に感じる。

「盆か……」

 深津は呟くと、無意識のうちに溜息を漏らした。

 清菜との墓参り。

 拒絶しか返せなかった彼女とは、昨日微妙な空気のまま別れてしまった。

 向き合わなければならないものから目を背けている自覚はあるが、こればかりはすぐに答えを出せない。それにもし彼女と行くにしても、その先に何があるのだろうか。

 彼女の望みは叶えられるが、彼女に対する後ろめたさは増すだけだ。

 行ったとしてもその場しのぎか、墓前で謝罪した既成事実を作り、自らの重荷を軽くしようとしている自身に向けた疑義も消えない。


「あっ、これはどうも」

「あ、どうも……」

 公園の出入り口に差しかかった頃、深津はちょうど中から出てきた男に呼び止められた。

 その場で足を止めて声をかけてきたのは、東仙だった。

「ご帰宅途中ですか? 深津さん」

「ああ、まぁそんなとこ。東仙さんも?」

「ええそうです。今この公園の向こうにあるお店で評判のスイーツを買ってきたところなんですよ。帰って家内と娘の喜ぶ顔を見るのが楽しみです」

 言いながら彼は手に持った白い菓子箱を掲げてみせる。それは深津も聞いたことのある有名洋菓子店の箱だった。

「どうやら向かう方角が同じのようですね。こうやって偶然会ったのも何かの縁です。ご一緒させてもらっていいですか?」

「あ、ああどうぞ……」

 東仙は律儀に断ると隣に歩み寄った。

 雨夜にいる時は気づかなかったが歩きながらこうして肩を並べると、思ったより身長があることを深津は知る。

 仄かな香水の香りが漂い、そんな類のものとは無縁に思えた彼の意外な一面を知った気がした。


「深津さん、早速ですが伺ってもいいですか? 昨日の清菜さんとの件、あれからどうなりました? やっぱり行かないと決めたままですか? すみません、少し気になってたので」

 届いた問いへの返答に深津はとりあえず惑う。

 返事をするならそのまま肯定を返せばいいが、この相手とはそれで話が終わるとは思えなかった。

 彼が正論を言っていることは分かっている。それを否定する気もない。

 でも彼のことを決して嫌っている訳ではないが、若干苦手意識がある。

 気遣うように丁寧に距離を縮めておきながらも、ずかずかと土足で踏み込んでくる感じも同時にしている。

「ああ、そうだな、気持ちは変わってない」

「そうですか。それは残念ですが、仕方がないですよね」

 結局そんな返答しかできなかったが意外に相手はあっさり引き下がり、それ以降は話しかけてくることもなかった。

 こちらも話すこともなく無言でいると、しばらくして隣から脳天気さを感じさせるメロディの鼻唄が聞こえてきた。


「深津さん、罪と罰についてどう思います?」

「え?」


 鼻唄を中断し、こちらを見た男はそう問いかけてくる。

 唐突な質問に怪訝な顔を返すと、男はにこりと笑いかけた。


「ある人が望むものが他の人には悪でしかないとしても、それが必要なある人にとっては、それは善でしかないのです。他の人に理解されなくとも、許されることがなくても、ある人が善と信じるものを悪だと頭ごなしに否定するのは、傲慢だと思いませんか? 物事は多角的です。他の人が否定するものを善と信じ続けるある人は、罰を受けるべきでしょうか? 僕はそうは思いません。彼にとって他の存在こそが悪だからです」

「あんた、何が言いたいんだ……?」

「望むものを手に入れるきっかけはどこにでもあるものですが、巡り合わないこともあるのです。深津さん、初めて出会ったあの日、あなたは僕に〝きっかけ〟を運んでくれた。あなたは僕を嫌っているかもしれませんが、僕はあなたに感謝しているんですよ」

 相手の言葉を理解する処理能力が追いつかなかった。

 しかし追えたとしても、戯言を思わせる言葉の数々を理解するのは困難でしかないのかもしれなかった。

 深津は何も言わずに隣の表情を窺った。

 突然こんなことを言い始めたよく知らない男が、全く知らない別人にも見えた。


「では、僕はここで」

 いつの間にか公園の敷地が途切れる交差点まで来ていた。

 東仙は見計らったように青になった横断歩道を渡っていく。

 深津はその姿を見送った。

 だが去っていくその背に不意に舞い降りた既視感を感じて、目眩を覚える。

 ふと気づけば、男が手にする白い箱に何かが染み出していた。

 赤いそれは徐々に箱の底を染め始めていた。


「ちょっと待て、東……」

 呼び止める声は最後まで発せられなかった。

 公園から響き渡った悲鳴にその声は掻き消される。

 一人の悲鳴が瞬く間に数人の叫びになり、救いを求める懇願も入り混じるそれを無視できなかった。

「クソ、一体何なんだ……」

 再び道路向こうに目を向ければ、男は何も聞こえていない素振りで横断歩道を渡り切り、そのまま歩いていく。

 深津はその場から駆け出すと公園に戻った。公園の広場で騒ぎの中心となっていたのは女性も含めた五、六人の若者グループ。

 同じ悲鳴を聞きつけて、自分以外の野次馬も集まり始めている。

 若者達は大声を上げて取り乱したり、青ざめた表情で地面に座り込んでいる。そんな彼らを介抱したり、なだめる人達がいる一方で、その様子を面白半分に写真に収める者や、傍の茂みを恐る恐る覗き込む者もいる。

 深津は近くを通りがかった五十代半ばの男性を呼び止めた。今程まで若者の一人を介抱していた彼に何が起きたのかを訊ねると、相手は何かを思い出したように顔を顰めた。


「死体だってさ」

「死体?」

「ああ。そこでげーげー吐いてた若いのに聞いたが、公園で仲間と騒いでたら偶然そこの茂みで見つけたってさ。死んでたのは若い女だってことだが、結構な有様らしいよ。俺もちらりとだけ見ちまったが、あんたも好奇心で覗かない方が身のためだね」

 誰かが通報したのか、パトカーの音が近づいてくる。

 付近の交番から駆けつけた警官が規制を始めた姿も見える。

「もしかしたら今世間を騒がしてるあの連続殺人犯の仕業かもな。殺されてるのは若い女ばっかだが、あんたみたいな線の細い兄ちゃんも気をつけた方がいいな」

 最後にそう言い残した男性は一段と増え始めた野次馬を呆れたように一瞥すると、去っていった。

 深津もその場を離れ、夜道を歩き始めた。

 この数分で様々な出来事が自分の周囲を通過していった。

 だがそれらは過ぎ去ったようでありながら、未だ全てが足元で蜷局を巻いていた。

 あの男の背に感じた既視感。

 箱に滲んだ血。

 どちらも見間違いや勘違いで終わらせることもできたが、それは無理だった。

 過去の記憶がそうすることを拒否していた。

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