7.弟

 携帯電話を鳴らしても、可奈は出なかった。

 電源が切られていないのがまだ救いだが、元より彼女はこの街に詳しくない。お金は幾分か持っているだろうが、感情を乱して駆け出した彼女の心内を思えば安心はできなかった。

「ごめん、怜。今日は迷惑かけっぱなしだね」

「気にするな。とにかく彼女を見つけるのが先だ」

 辺りは夕暮れの気配が漂っていた。

 窺ったアゲハの表情は、不安と心配で覆われている。

 きつい発言が多かったが、彼女も彼女なりに妹を思っている。

 姉妹は互いに思いながらも、感情がどこかですれ違っている。

 それを結ぶ役目を担うには些か荷が重いと深津は思うが、多少の手助けなら自分にもできるかもしれなかった。


「可奈? 可奈なの? 今どこ? 大丈夫なの?」

 突然鳴った携帯電話にアゲハは飛びつくように出た。矢継ぎ早の質問は如何に彼女が妹を心配していたかが伝わるものだった。

 深津がこちらにも聞こえるようにと目配せすると、アゲハは通話をスピーカーにした。

『大丈夫だよ……大丈夫だけど、気がついたら知らない場所に出てた……だからここがどこなのかよく分からない……』

「そう、分かった。可奈、いい? 落ち着いて辺りを見回してみて。もし何か目印になるものが目に止まったら、私に教えて」

『えっと……ビルばっかりで何も……あっ、あそこ、華に丸のマークのあれはデパートなのかな……? その建物が近くに見える』

「そっか、そこは多分華丸はなまる百貨店の近くだね。それじゃ今からそっちに行くから、可奈は動かないで。近くに着いたらもう一度電話するから」

『うん分かった……ねぇお姉ちゃん』

「何?」

『ごめんね、こんなつもりじゃなかったんだよ……』

「分かってるよ。今すぐ迎えに行くから待ってて、可奈」

 アゲハは通話を終えるとこちらを見る。

 その顔には安堵が見られるが、不安のような翳りは消えていなかった。

「怜、悪いんだけど可奈を迎えに行ってくれない?」

「え?」

 深津は疑問を浮かべた表情を返した。

 今のやり取りを聞いた後で、その言葉が来るとは思っていなかった。


「どうしてだ? 行ってあげないのか?」

「……前から感じてたけど、妹と私は一緒にいない方がいいのかもしれない。それは私のためって言うより、妹のために。分かってるんだよ、あの子がいつも私に苛々してて、あんな態度を取ってるのは。でも私だって自分のことで今は精一杯で、妹にまで目を向けられない。だからそんな中途半端にしか構えないなら、最初っから構わない方がいい。いつかそんなことを気にしないでいられる日が来るかもしれないけど、それはいつになるか分からないし、もしかしたらずっと来ないかもしれない。もし私が傍にいない方が妹が心穏やかに過ごせるって言うなら、その方がいいとしか思えない」

 深津は無言でアゲハを見返した。

 彼女が妹を心配し、思っているのは確かだ。

 一見突き放して見えるその言い分にも一理ある。今はいい状態でなくても、時間が解決してくれる時もある。

 しかし、と深津は思う。

 自らと重ねても大した意味など生まれないかもしれないが、随分前に亡くした弟の姿が脳裏を過ぎった。


「アゲハ、俺には直人なおとという弟がいた。でも死んだ。もう十八年くらい前のことだ。だけど今でも弟のことを思い出す。ああすればよかったとか、こうすればよかったとか」

 弟、直人が死んだのは自身が七才の時だった。

 飲んだくれの父親と幼い弟との三人暮らし。三つ下の弟は自分が守らなくてはと感じていたが自身もまだ幼く、時に疎ましく思っていたのも確かだった。

 ある日友達に誘われた釣りに行きたくて、まだ一緒に遊べない弟を家に置き去りにした。夕方遊びから戻ると弟は死んでいた。飲んだくれでろくでなしの父親がぐずる弟を突き飛ばし、彼はタンスの角に頭を打ちつけて呆気なく死んでしまった。

 父親は上手くその場を誤魔化して言い逃れ、弟の死は事故として処理された。

 弟を殺したのは父親だが、原因を作ったのは間違いなく独りぼっちにした自分だった。

「けど、後悔先に立たずだよな。過ぎてしまった後ではもう遅すぎるんだよ」

 だから弟が生きていたらこうなったであろう今のこの姿になった時、身を滅ぼすように自暴自棄になることも、自ら死を選んで〝もう一度殺すこと〟を思考の端に浮かべることすらできなかった。

 藍野と清菜に出会った九ヶ月前のあの夜まで、ただゆっくりと自らの魂を腐らせることしかできなかった。


「だからえっと……まぁとにかく、妹は迎えに行けってことだ」

「何それ、そのぐだぐだな感じ。もしかして説得のつもり?」

「こういうのは得意じゃないんだよ、あんまりやらせるな」

「覚えとく」

「で、どうするんだ、アゲハ。迎えに行くんだろ?」

「……怜に得意じゃないことをやらせたんだよね。責任は取るよ」

「そうか、それならいつまでもここにいてもしょうがない。早く行こう」

 深津はアゲハと歩き始めた。

 過去を吐き出したとしか言えないぐだぐだな説得が、功を奏したのは奇跡に近い。と言うより、そのぐだぐださに単に同情されたと言った方が多分正しかった。

「ねぇ、怜」

「何だ?」

「ありがとう」

「今日はありがとうが渋滞してるな。一体何にだ?」

「怜は自分のことはあまり話さないよね。話さないって言うより、話したくないって感じかな。でも今日は私の妹のために過去のことを話してくれた。だからありがとう」

「そんな大仰な話じゃない」

「だけどうれしかったよ。何だかんだ言って今日の件を引き受けてくれたことも」

「それはアゲハが脅したからだろ?」

 言いながら隣を見ると、彼女の表情から先程あった不安の翳りは消えていた。

 二人並んでしばらく歩くと華丸百貨店が見えてきた。再度妹に連絡して確実な位置を特定したアゲハは、電話を切るとこちらを見上げた。

「怜はここまででいいよ」

「え? いいのか?」

「うん。それとこれ、今日のお礼」

「別に大したことはしてない。礼なんていらな……」

「受け取ってよ。その方が後腐れもないでしょ」


 差し出された紙幣を深津が渋々受け取ると、彼女は夕暮れの街を見渡してからもう一度こちらを見上げた。

「あのさ怜。妹とはあのまま現状維持もできたけど、もっとちゃんとしなきゃ駄目だったんだよね。向き合わないといけないものからいつまでも目を背けていたら、何も変わらないって今日すごく実感した気がするよ。私、もっと妹と話してみる。二人とも気が強いからまた衝突するのは目に見えてるけど、努力は必要だよね。じゃ怜、またね」

 彼女はそう告げると、自分を待つ妹の元へ向かっていった。

 その背を見送り、深津は一人家路についた。

 向き合わなければならないものからいつまでも目を背けていては、何も変わらない。

  繰り返したその言葉は深く身に染みた。

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