4.過ぎる過去

 ――滑り落ちるように、どこまでも堕ちた。

 もう何がどうなろうと、どうでもいいと思っていた。

 お決まりのコースのように堕落した日々を送り、不良少年がするような犯罪を繰り返して、気づけば引き返せないほどの重罪にまで手を染めていた。

 ろくでなしの父親、物心ついた頃からいなかった母親、そんな環境ではそうなるのは当然だが、必然ではない。

 でも何よりいつも心にあったのは十八年前、自分が置き去りにしたせいでたった四才で死ななければならなかった弟。

 彼を忘れたことはなかったが、もしかしたら忘れたかったのかもしれなかった……。




******




「え? 何だって?」

 深津は自分の声で現実に戻った。

 再び蘇ろうとした過去の記憶は、欠片を落としながら背後に消えていく。

 場所は雨夜。週末の店は少し混んでいた。カウンター席は埋まり、実夜はそちらの方にかかり切りになっている。

 深津は藍野とテーブル席でのんびりやっていたが、七時を過ぎた頃、清菜がやって来た。いつもより明るい表情の彼女は席に着くと近況を語っていたが、その最後に告げられた言葉を深津は思わず訊き直していた。


「すみません……図々しいお願いなのはもちろん分かってたんですが……」

 目の前には畏縮したような清菜の表情がある。彼女はそれ以上何も言わなかったが本当は訊き直さなくても、何を告げられたかは分かっていた。

 彼女は先程まで新しい仕事が決まったことを報告していた。

 初めての映画出演。人気ミステリー小説が原作。出番は多くないが、主人公の亡くなった恋人役で重要な役回り。選ばれた経緯には、先日の宮永瑛旬との撮影が深く関わっていた。その時に撮影された写真が雑誌掲載前ではあるが彼の知己である映画制作者の目に止まり、異例の抜擢に至ったらしい。

 そして彼女は念願の映画の仕事に関われたことを父親の墓前で報告したいと告げた。例年盆にしていた墓参りに今年は忙しくて行けず、ようやく来週時間が取れた。その時できれば夢に近づく後押しをしてくれた相手と行けたらと、彼女は控え目な懇願の言葉を零して話を締めくくった。

 深津はその言葉を前に困窮していた。

 その相手が自分であるのは分かっていた。

 あの時確かに相談には乗った。でも彼女にそう思わせるほどの立派なアドバイスなどしていない。それ以前に自分は彼女の父親の墓前に立つ資格もなく、立てる立場でもなく、何よりそんなことなど決して許されるはずもない。

 今日何度も蘇った過去の記憶。

 しつこく脳裏にちらついて自分を過去に引き戻そうとしていたのは、このことを暗示していたのかもしれなかった。


「行けない」

 深津はそう言葉を返した。冷たい言葉と思ったが、それ以外のものはこの世に存在しなかった。

「そうですよね……すみません」

 答える清菜の表情がより曇る。

 しかし自分にできることは何もなかった。

 一緒に行けば彼女は喜ぶだろうが、もしいつか万が一自分が隠し通すこの真実を知った時、彼女はきっと自身を責めるだろう。

 行かないことが彼女のためと思うが、ただ行けないと言うだけでは失望させるだけなのも分かっている。こんな表情をさせるために自分は彼女の傍にいたのかと思うと、自らへの罵りしか漏れない。けれど所詮どんな言葉で取り繕おうとも、自分は自分のために彼女の傍にいるのかもしれなかった。


「深津、一緒に行けばいいんじゃないか? 白玉しらたま町の霊園ならそれほど遠くない。電車で三十分ほどだ」

「距離を言ってるんじゃない」

「じゃ、何だ?」

「行けないものは行けない。それだけだ」

 見かねた藍野が助言するが、こればかりはどう説得されようと首を縦に振る訳にはいかなかった。

 断ち切るような返事に藍野も黙る。

 だが嘘を重ねない限り、言えない理由しか自分にはない。

 生前の行いのせいで彼女の父親を死なせたから行けないなど、そんな荒唐無稽な真実は何があっても口にできる訳がなかった。

「あの……お話し中すみません」

 その声に目を遣ると、カウンター席にいる中年男がこちらを見ている。

 くたびれたスーツ姿、手にはビールを注いだグラス。

 以前ここで出会った、清菜のファンを自認する東仙だった。

「会話がちょっと聞こえてしまったので」

 こんな狭い店では話が筒抜けなのは当然だが、深津は顔を顰めた。

 見遣ったその顔には介入したそうな気配がありありと滲み出している。


「それは悪かったな。もう少し小さい声で話すよ」

「いえ、そうじゃなくてちょこっとご意見を」

 やんわり会話を断とうとしたが、向こうは気にせず踏み込んでくる。こちらの意図に気づかない相手には再度同様の表情を送るが、言葉は構わず続いた。

「今のお話ですが、深津さんが清菜さんとお墓参りに行けないというか、行きたくないっていうのは部外者の僕にも伝わりました。でも理由を言いもしないで行けないの一点張りでは、あまりにも誠実じゃないと思います。どうして一緒に行けないんですか? 行く行かないの話に言えない理由なんてないですよね? 僕は清菜さんと似た年頃の娘を持ってますが、同じように話がこじれた時は互いに納得するまで話し合うようにしています。経験上、一方が誠意を見せないと相手にも……」

「分かった、貴重な助言どうもありがとう」

 深津は相手の言葉の途中で立ち上がった。彼の発言は至極正しいと理解するが、こちらにも言えない事情はある。

「これ俺の分。藍野、悪いけど俺は先に帰ってる。清菜、悪かったな」

 テーブルに紙幣を置いて深津は席を離れた。彼女の表情が視界の端に映るが、今言える言葉はそれしかなかった。

 店内を横切り、まだ忙しそうな実夜には目配せだけをして店を出る。

「えーと、僕、どうやら嫌われちゃいましたかねぇ」

 背後からは東仙の呑気な声が聞こえたが、彼に対しては悪かったという思いはあっても、今はそれを素直に顕す気にはならなかった。


「深津」

 すっかり暗くなった道を歩き始めると、その声が届いた。

 振り返れば歩み寄る藍野の姿がある。今言う言葉でないのは分かっていたが、皮肉しか漏れなかった。

「何だ、まだ何か言い足りないか?」

「ああ、言い足りない。さっきは悪かった。今だって清菜ちゃんの頼みを聞いてあげればいいと思ってるが、お前にはお前の事情があるんだろう? その辺りを失念していた」

 暗がりの表情には翳りが見える。

 それを目に映せば、自らへの罵りが再び漏れた。

 自分は彼らからいつも様々なものを得ているのに、返すのはいつもこんなものばかりだ。

「いいや、藍野は悪くない。清菜もな。ついでにまぁ東仙さんも」

「そうか。そう言ってもらえると助かる。それじゃ言いたいことは伝えたから、俺は戻る」

「藍野」

「何だ?」

「いいや、何でもなかった」

「本当か?」

「ああ、気にするな。もう行ってくれ」

 まだ訝しむ相手を見送ると、深津は夜道を歩き始めた。

 自分が恵まれた環境にいるのを自覚すれば、久方振りにあの墓穴の気配を感じる。

 もしこのまま彼らと距離が遠離れば、結果として彼らにとってよい方向に向かうのではないだろうか。

 止めどなく流れる感情が、脳裏に行き交って混ざる。

 しかし今夜もそれらに何一つ答えは出せそうもなかった。

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