3.記憶の墓場

1.ホテル『海溝』六一八号室

 初めての場所もここだった。

 死んで、目覚めたらここにいた。

 目の前にいたのは知らない男。

 向かい合わせの椅子に座ってにやついていた。


『……さん、あなたは死にましたが、まだ死ねません。ですがこれから善きことを重ねて生前の悪行の債務を帳消しにできれば、まぁ、いつかは本当に死ねるでしょう』


 突然言葉を発した相手が何を言っているのか分からなかった。

 でも言葉の端々に、思い当たる節は腐るほどある。男が言いたいことは何となく分かった。


『それでですがこの先、元の姿のままだと色々支障があるので、あなたの姿は変えておきました。あなたの新しい姿はあなたのさんの姿にしておきました。彼が生きていれば、きっとそう成長したであろう姿です。つまりもっと平たく言えば、あなたが死なせてしまったと、ずっと悔やみ続けている相手の姿です』


 その時初めて男の背後の鏡に映る姿が、自分であることに気づく。


『私は新木戸壱乃と申します。どうぞ末永くよろしくお願いします。私のことは新木戸さんとでも新木戸様とでも、壱乃ちゃんとでも、好きに呼んでください。あ、それとあなたの新しい名前もこの私が考えておきましたよ。あなたの名前は今日から……』




******




「深津さん」

 記憶の底から呼ばれたような声に深津は顔を上げた。

 目を開けている自覚は確かにあるが、頭にはまだぼんやりと霞がかかっている。

 溺れた感触が未だ身を覆うが、見回した場所は見慣れた場所だった。

 ホテル海溝、六一八号室。

 目の前には新木戸さんとも新木戸様とも、壱乃ちゃんとも呼ぶことのなかった死神男の姿がある。


「悪い……ちょっとぼんやりしてた」

「えっ? ぼんやりしてた? 一体それってどういう現象なんでしょうか? 少し身体ボディの方が心配ですねぇ。もしかしてのーみその調子がよくないんでしょうか? せっかくですからこの機会に一度開いて確かめてみるのもいいかもしれませんねぇ」

 そう言って手ぐすねを引くように窺う瞳には、邪な好奇心しか見えない。

 ここで同意を欠片でも見せれば、冗談ではなく本当にやりかねない。

 絡みつく相手の視線を躱して、深津は話題を逸らした。

「いや、大丈夫だ。それより悪いが、今の話をもう一度してくれ。聞いてなかった」

「ああ、それなら大したことは言ってませんよ。前回深津さんが関わったあの屋敷の名義変更を無事終えたって話くらいです。心配しないでください、あの物件は大切に扱わせてもらいますから。ですけどそれより私が今心配なのは深津さんの方です。本当に大丈夫ですかねぇ? 私はやれと言われれば、他のことを放り出してでも取り組む所存ですよぉ」

「いいって言ってるだろ」

「またまた、そう言いながらも本当はやってほしいのでは?」

「そう聞こえるとは随分と都合のいい耳だな」

「だって嫌よ嫌よも好きのうちって言いますよね? もしそうならそんな奥ゆかしい深津さんも私的になかなか煽られる感じです」

 いつも以上に相手との会話に理由を見出せない。

 会話の齟齬にも疲れ果てて、深津は窓の外に目を遣った。

 時刻は夕方四時。

 八月も半ばを過ぎ、この時間になれば夏の様相もなりを潜めている。日によってはより初秋に近づいた気配を感じさせる。

 ここで始まった二巡目の生は、この季節を三度訪れさせた。

 この日々にいつ終わりが来るか分からない。

 本当に終わりが来るかも分からない。

 深津自身、時にどちらを望んでいるか分からなくなるが、その望みすら自分には許されないものであるのは分かっている。しかし詮ないそれをどんなに頭から追い払おうと思っても、先の見えないこの日々の結末を考えない日はなかった。


「なぁ、俺はいつまでこれをやり続けるんだ?」

 思わず向けてしまった問いには、目の前の男が表情を僅か変える。

 脚を組み直した相手は片頬に笑みを浮かべて答えた。

「さあ? いつなんでしょうね」

「時々俺のやってることはただの独り相撲で、あんたにただ弄ばれてるんじゃないかと思う時もあるよ」

「えーっ、それはあんまりなんじゃないですかねぇ? 私をそんなふうに見てるなんてちょっと酷いですよ。まぁその弄ぶというワードはグッと来ますが、私は仕事には忠実ですよ。あなたの行いに対する査定は私の匙加減であるのは確かですが、所定通りちゃんとやってますから。ですけど今日は少しつまんないことがあったなー、だから低めに査定しちゃおうかなー、とか思う日も無きにしも非ずですが」

「……それ、冗談だよな?」

「あっ、それで今思い出しましたが、深津さんもご存じですよね? ここの階でたまに見る可愛らしいけどやたらと勘のいいクソガ……いえ、お子さんのことです。普段から避けられてるのには気づいてたんですが、今日は運悪く出会い頭になっちゃってねぇ。あのクソガ……いえ、お子さん、私を見るなりいきなり絶叫して失禁までしたんですよ。酷いと思いませんかぁ? こっちはそれなりに気を遣ってるのにこんなの差別です、謂われなき迫害です。ですからそんな日は査定も低くなる可能性も孕むかもしれませんが、これも深津さんの理解の範囲内ですよねぇ?」

 相手はそう言いながら上目遣いに見るが、深津は言葉もなく再び外に目を遣った。 そこにも多分何も望めないはずだが、ただあの子供に怯えられて逃げ出されるくらいの自分は、この男より大分マシと知ったのはとりあえずの救いだった。


「分かったよ。要はあんたが言いたいのは期待なんかするなってことだな」

「いやですねぇ、深津さん。今のは全部冗談ですよ。やたらと真面目ぶったあなたの気持ちを解そうと私なりの気遣いを見せただけです。この私がそんな適当なことなんかする訳ないじゃないですかぁ」

 そう言うが相手のどこを見ても、信用に足るものなど見当たらない。

 ここにいてもただ時間が経過するだけか、この相手に煙に巻かれ続けるだけなのは随分前から分かっていた。

「じゃ、何もないなら俺はもう帰る」

「はい、いいですよ。今日は定期面接みたいなものですから。けど深津さん、最後に一つ」

「何だ?」

「数週間前からこの街で連続殺人事件が起きているのをご存じですか? つい二日前も新しい犠牲者が出ました」

「ああ、それなら知ってる。その事件がどうした?」

「別にそれだけです。そんな事件が起きているので、気をつけてくださいねってことです」

「何だよ急に。でもまぁ気はつけておく。もしかしたら連続殺人犯は意外と近くにいるかもしれないしな。今も俺の目の前にいるとか」

「あはは、深津さん、それ面白い冗談ですねー。そんなはずある訳ないじゃないですかー。大体私が犯人だったら、死体なんか出しませんよー」

 男はそう答えて愉しげに笑う。

 元より冗談のつもりだったが、今感じた疑念はまだ胸の奥に残しておいた方がいいのかもしれなかった。


「それじゃな」

「えっ、本当に帰っちゃうんですか?」

「あんたが帰っていいって言ったんだろ?」

「えー、今日はこれから一緒にお酒でも飲もうと思って用意してたのにー」

「いらない」

「そんな速攻で断らないでくださいよ。あのですね、実は私これまでは断然ウイスキー派だったんですが、今芋焼酎にハマってるんです。ほらこれなんか、なかなか美味し……」

「いらない」

「あ、そうですか。それは非常に残念ですね。ではまぁ今後もこれまで以上に頑張ってください。恐らく債務終了まで残すところ後半分、いや、三分の二、いや、五分の四、えーと……」

 無下に断った仕返しなのか巫山戯た声は続いたが、深津は無言で部屋を出た。

 歩み出た廊下は、どこにも辿りつかない気配を漂わせながら暗く長く続いている。

 その光景は自らのこれからを示唆しているようにも感じた。

「一体いつまで……いや……」

 堂々巡りを繰り返しそうになって、深津は自らの愚かさごと振り切った。

 エレベーターに乗り込むと、扉が閉まるタイミングで携帯電話が鳴る。

 電話の相手は清菜の誕生日に短い会話を交わして以来、会っていなかったアゲハだった。

『怜、久しぶり。悪いけど今から会ってくれない? 大沼おおぬま通りのファミレスで待ってるから』

 相手は伝えると、返事も聞かずに電話を切った。

 深津は降下する箱の中で天井を仰いで、溜息をついた。

 自分の周囲には些か一方的な会話をする相手が多くないだろうか。でもそれも自分の業の一部と思えば、従うべきものという答えが出る。

 ひと気のないロビーを横切ってホテルを出ると、深津は自分を呼びつけた相手の元に向かった。

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