11.願い

 夕刻、深津は車を返しにいく藍野と清菜を杉川の屋敷前で見送っていた。

 彼らの姿が見えなくなるまで見送った杉川は家に戻ろうとしている。黙ってその後を追うと、足を止めた相手は怪訝な表情で振り返った。

「怜、お前どこまでついてくるつもりだ?」

「今日は遠出もして疲れたろ? 俺は爺さんがリビングのソファにどっこいしょとケツを下ろすまで、見届けるつもりだから」

「人をよぼよぼの年寄り扱いするな、餓鬼が」

「車に乗る時もさっきも、何もない所で躓いてたろ? いいからほら」


 足取りが危ういのを再び見取って、深津は相手を支えながら家に戻った。

 リビングに到着するとソファに座らせて明かりを点ける。

 明かりを灯しても、風景が沈んだようなリビングはどこか暗い。

 大人しくソファに座る相手を見遣って、深津は声をかけた。

「爺さん、欲しいものがあれば持ってくるけど」

「そんなもん自分でやる、と言いたいところだがお前の言う通り少し疲れたようだ。すまんが、酒を持ってきてくれ。キッチンにある」

「なぁ今日ぐらい酒はやめとけば?」

「今日だから飲む」

「ああ、そう、分かったよ。どうせ俺の言うことなんか聞きもしない」

 深津は隣のキッチンに向かうと、ワイン用ラックに歩み寄った。

 だがそこにボトルは一本しか残っておらず、床にあるのは全て空き瓶だった。

 周囲も片づけられ、昨日まで使われていたはずの道具や調味料は隅に置かれた箱に整然と詰め込まれている。

「ほらよ」

「すまんな、怜。なぁもしこの後用がないなら、少し付き合え」

「もちろんありがたく付き合わせてもらうよ。言われると思ってグラスも持ってきた」

 笑みを浮かべた杉川の向かいに深津は腰を下ろした。

 それぞれ自分のグラスに注ぎ足しながら、ワインを飲む。

 杉川は付き合えと言ったが特に話しかけてくることもなく、黙って酒を飲み進めている。

 深津も何も言わずにそれに付き合った。

 窓の外は日が落ちようとしていた。

 ボトルは一時間後には空になっていた。

 遠くを走る救急車の音が微かに聞こえた。


「怜、この数日、楽しかったよ。久しぶりに生きた気がした。海でも話した連れ合いだが、俺と彼は二十四の時に出会って二十年間ずっと、この家で暮らしていた。でもその暮らしも彼が死んだ二十五年前に終わった。それからの俺は生きていたが、死んでいた。お前を初めて見た時、要二ようじに似ていると思った。しかしよく見たらとんでもないろくでなしのチンピラで、全く似ても似つかなかったがな。それでも失った何かを取り戻せたような幻想を味わえたよ。死に際の夢ってとこだな」

 老人は言い伝えて力なく笑う。

 アトリエにあった描きかけの絵。

 キャンバスにサインされた名。

 今更多くを訊く必要はなかった。

 大事なものを失い、喪失に浸かりながらも想い出溢れるこの家を離れられなかった杉川に返す言葉はなく、ただそれを受け取ればいいと思った。

「もう休む。お前は帰っていいぞ、怜」

 杉川は手にしたグラスを置くと立ち上がった。

 しかしすぐにふらつく。

 すぐさま駆け寄って支えれば、彼は寄る辺を求めるように身を寄せてきた。

 傍で見ると随分小さく見える肩を抱き寄せれば、掠れた声が届いた。


「怜」

「何だ、爺さん」

「死ぬのは怖くないが、寂しい。彼に俺はもう一度会えるだろうか?」

 届く声は震えても聞こえる。

 深津はどう答えればいいか分からなかった。

 一度死んだことはあるが、気づくとまたこの世に舞い戻っていた。

 でも彼と自分は違う。

 彼のような人間なら、会いたい相手に一目会うくらい許されるのではないだろうか。そう思うが、結局こんな言い方しかできなかった。

「さあ? 会えるんじゃねぇの、知らないけど」

「お前、そこはきっと会えるでしょうだろうが。相変わらず気の利かん奴だ。もういい、大丈夫だ。離せ」

 杉川は自分から身を離すと、壁際のキャビネットに向かった。引き出しを開け、大きめの封筒を出す。それをそのままこちらに差し出した。

「俺は数日中にホスピスに移る予定だ。荷物は処分したし、彼の絵は以前から買いたいと申し出てくれていた信用できる画商に譲った。お前にはこの書類を渡しておく。上司がいるならそいつに渡せ。ここを売るも壊すも好きにできるはずだ」

「最初にそう約束はしてたけど、それで爺さんはいいのか……?」

「俺はじきに死ぬ。想い出から離れられずにここに居座り続けたが、その想い出は今日全部胸の中にしまった。もう思い残すことはない。お前ももうここに来なくていい。お前を散々振り回して、悪かったな。たった数日だったが、本当に楽しかった。ありがとうよ、怜」


 数分後、深津は渡された書類を手に屋敷の前に立っていた。

 見上げた暗い空には既に星も望むこともできる。

 家の中で深津が最後に目にしたのは、こちらの手を断って一人寝室に向かった杉川の背中だった。

 杉川と死。彼は忘れられない想い出に支えられながら、自らに残された僅かな日々を生きる。

 自分と死。それは忘れたくても忘れられない過去に囚われ続けるものでしかない。

 深津は自分と真逆の位置にいる彼をうらやましく思った。

 でも同時に怖ろしくも思った。喪失を怖れる必要もなかった過去とは違い、今は手放したくないものが自分にはある。

「会えるといいな、爺さん」

 深津は呟き、心からそう願った。

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