10.薄曇りの海辺

 その翌日となる土曜。

 頭上の空は薄曇り。夏の空としては生憎だが、連日の暑さの中休みのような気候は比較的過ごしやすいものだった。

 五人乗りのシルバーのレンタカーは海岸線を走っている。

 運転席には藍野、深津は助手席に、後ろの座席には杉川とそれと清菜の姿があった。


 昨日帰宅した深津は藍野に今回の件を話した。

 もちろん新木戸の存在や、彼の命令で動いていることは伝えなかった。

 あるきっかけで老人と出会い、その老人の望みを叶えるために海に行きたいが、この国の法律的に則って運転が可能な人が必要だ、それだけを伝えた。別案として深津はタクシーを使うのも一考したが、杉川と自分と見知らぬ運転手、間も持ちそうもない地獄のような時間を考えればその選択肢は早々に消えることになった。

 話を聞いた藍野は、説明した事情以外何も訊かずに承諾した。しかしそうなるのを分かっていて、彼を巻き込んだ感があったのを深津は否めなかった。

 要は彼の人のよさにつけ込んだとも言える。

 それを思えば今日の空のように重い気分しか生まれないが、全て承知でこうなるのを望んだ自分は自戒を続けるしかないのも分かっていた。


「ほう、清菜さんは女優さんを目指しているのか」

「はい。でもまだ本当に駆け出しなんですが」

 背後からは杉川と清菜の会話が届く。

「いや、夢や目標を持って若者が頑張るのはいいことだよ。俺の家にテレビはないし、雑誌もちょっと目にする機会は少ないが、影ながら応援してるよ」

「はい、ありがとうございます、杉川さん」

 清菜が来ることになった経緯は簡単なものだった。

 車を借りに出かけた藍野が途中雨夜に立ち寄り、ちょうどそこにいた本日は休日だった清菜を誘った、それだけのことだった。

 しかし藍野と合流した際、同乗する清菜の姿を見て深津がまず感じたのは危惧だった。運転の役目がある藍野はともかく、関係のない清菜の存在を知って偏屈なあの老人の機嫌を損ねないかと心配したが、それも杞憂だった。

 借り物の大衆車を見て「情緒のない車だ」と先制攻撃的にぼやいたのは間違いないが、いつもの杉川らしさが出たのはそれだけだった。

 二人の人柄のおかげもあるが、海が見えてきた頃には自身の存在はもう必要ないのではと深津が思うほど、杉川は藍野、特に清菜と馴染んでいた。


 午後二時を過ぎ、到着した海岸は人も数えるほどしかいなかった。

 生憎の天気であるのと、海水浴場でないことが理由として大きい。

 杉川は海ならどこでもいいと言ったが、家族連れやグループで賑わう場所では彼の望むものとかけ離れている気がした。

 どこに行くかは藍野に任せていたが、こちらの状況を汲んでくれた彼に一任して正解だったのかもしれない。

 薄曇りの下にある暗く碧い海は一見物寂しく見える。でも本来の海が持つ穏やかさも感じられるものだった。

「怜、お前は口の利き方も態度も悪い糞餓鬼だが、友達と彼女はよくできた人間みたいだな」

 冷たくもなく、暑くもない海風が吹き抜けていた。

 波打ち際で水遊びをする清菜と、傍でそれを見る藍野。

 彼らから離れた砂の上に腰を下ろした杉川の隣に、深津は立っていた。

「清菜は彼女じゃないよ」

「そうか、そりゃよかった。あの子はお前なんぞにはもったいない」

「ああ、そうだな。それは間違ってない」

「珍しくすぐに同意か」

「彼女は本当は俺なんかに……いや、やっぱり何でもない」

「何だ、途中まで言いかけてやめるな。まぁいいが」

 こちらを見た杉川は呆れたように言って、前方に視線を戻す。

 決して関わるべきではない。

 深津はそう言いそうになったが、言葉にしても仕方がなかった。これは自分の中で延々と唱え続けなければならない事実だった。


「怜、前にお前が言ってた飯を作ってくれる相手だが、それが藍野君か?」

「ああ、そうだ」

「いい友達だ」

「分かってる」

「そうだな。俺が敢えて言うことでもなかった」

 遠くまで響く鳴き声に上を見ると、白い海鳥が飛んでいる。

 つがいと思われるその二羽の鳥は海岸線を遠離っていった。

「爺さん、望み通り来られてよかったかよ?」

「ああ、満足だ」

「なぁ、どうして海に来たかったんだ?」

 いらないことを訊ねていると思ったが、深津は隣を見た。

 相手はしばらく海を眺めた後、言葉を続けた。

「俺には連れ合いがいた。もう随分前のことだ。彼が絵描きで、俺が料理人だった頃だ。彼は海が好きで、二人でよく行った。一人になって、もう二度とこの景色を見ることはないと思っていたが、今日は来られて本当によかったと感じてるよ」

 風が強く吹き、海に白波が立った。

 勢いを増した波でワンピースの裾を濡らした清菜が声を上げる。

 こちらを見た藍野が笑みを浮かべて手を上げた。

 彼らの傍には生が溢れている、深津はそう思った。

 薄曇りの空の下、隣の老人の影が薄くなる。

 人がいつ死ぬかなど分からない。ある日突発的に命を失う者もいれば、余命を宣告されてもそれ以上に生き延びる人もいる。

 でも彼の命の終わりは、すぐそこに来ている気がしていた。

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