9.ゴトウヨウジ

 まず一階から順に巡る。

 一部屋目は客室だったが、埃だらけのベッドが目に映るだけだった。

 次の部屋は書庫だったが、長年足を踏み入れた形跡もない。

 最後の扉を開けると、見覚えがあるのに気づく。

 初日に探索した際、外から覗いた部屋だった。整然と片づけられ、大事に保管されている気配がある。

 今日足を踏み入れて知ったが、ここはアトリエのようだった。

 微かに画材の匂いが漂い、埃除けの布の下を見るとそれらは全て絵や絵画の道具だった。

 暗がりで見確かめた作者の名は、どれもゴトウ・ヨウジとなっている。

 深津はその中で一番大きな布を捲ってみた。イーゼルに立てかけられたままの絵は完成していない。

 デッサンのような線と簡単な彩色しか為されていないそれは、この屋敷の裏庭を描いたものだった。

 花壇には色とりどりの花、サンルームにはグラスを傾ける男の姿。

 絵の具の褪せ具合から十年もしくは二十年、描きかけのこの絵が放置され、部屋が使われなくなってからかなりの年月が経っているようだった。


「お前、何してる」

 怒りを孕んだその声に深津は振り返った。

 扉の傍に杉川が立っている。表情には声と同様のものしか見えず、深津は謝罪と釈明を向けるしかなかった。

「悪い。爺さんがサンルームにいなかったから、捜してたんだ。もしかしてどっかで倒れてるんじゃないかと思って。でもだからって勝手に入ったのは本当に悪かったよ。すまなかった」

「少し目眩がしたから寝室で休んでただけだ。それよりお前、早くここから出ろ」

「分かったよ。今出る」

 杉川の後を追って深津は部屋を出た。

 彼を捜していたのは善意だが、絵の覗き見は単なる好奇心でしかなかった。謝罪が足りないのは感じていたが、今繰り返しても火に油を注ぐだけのようにも感じた。

 老人はリビングに着くと不機嫌そうにソファに腰を下ろし、こちらを見ることもない。まだ怒りを抱えているのが伝わったが、敢えて何も口にせずにいると声が届いた。


「お前、あの部屋で何を見た」

「何を見たって、俺が見たのは古い画材と描きかけの絵だよ」

「その絵をどう思った?」

「どう思うかと訊かれても俺には絵を判断する知識なんてない。ただ好きか嫌いかぐらいだよ。でも多分……あれを描いた人はあの絵に描かれたものに愛情を持ってた。俺はそれをいいと思った。俺が言えるのはそんな単純な感じのものだけだよ」

 あの絵のモデルは杉川で間違いないはずだった。

 彼は否定するだろうが、その否定を確認するために訊くつもりもなかった。

 杉川は無言でソファに座っていた。

 怒りはもう散ったようだが、何かを考え込んでいる。

 昼間でも光度が低く、外気も感じさせないその場所にいると顔色が悪く、青ざめても見える。

 でも実際見えるだけでなく、本当に悪いのかもしれなかった。

「怜、お前、運転免許は持ってるか?」

「は? 何だって?」

 届いた問いを深津は思わず訊き返していた。唐突すぎるそれには疑問しか感じなかったが、見返した相手の顔色はやはり悪かった。

 先程も目眩がしたと言っていたのを深津は思い出す。今ここにいる自分がやるべきなのは彼とこうして会話をすることではなく、彼を連れて病院に向かうことのような気がしていた。


「爺さん、具合が悪いんじゃないのか? 無理しないで病院に行って看てもらった方がいいんじゃないか?」

「病院にはもう行かん。どこにいたってゆっくりとくたばっていくだけだ。それよりどうなんだ怜、持ってるのか? 持ってないのか?」

「いいや、運転はできるが免許は持ってない」

「ふん、まるでろくでなしの答えだな。大体いい歳した男がそんなもんも持っとらんとは」

「じゃ、爺さんは持ってるのか?」

「持ってたら、お前なんぞに訊くか」

 老人は言い捨てると、憮然とした横顔を見せる。

 彼の目的は分からない。しかしいつものように強がりながらもを頼ろうとする真意を見透かせずとも見逃せなかった。

「爺さん、どうしてそんなことを訊く?」

「海に連れていってほしい」

「海?」

「どこでもいい……頼む、怜」

 老人は最期の言葉を思わせるように呟く。

 向かい合う相手の身体が霞んで見える。

 その表情の端に初めて浮かび上がった弱々しいものを見て、拒絶する選択肢はこの屋敷のどこを探しても存在しないと深津は思った。

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