7.パスタとワイン

 翌日午前九時。深津が杉川邸に着くと、老人は既に家の前で待ち構えていた。

「遅い」

「え? 遅れたか? ちょうど今九時だ」

「お前、五分前行動という言葉を知らんのか。この糞餓鬼が」


 深津は届いた到着早々のその言葉に暫し呆けた。

 思い返せば、この老人との出会いから現在までまだ三日。大した会話もしていない相手に、なぜここまでの悪態を水が流れるようにつけるのか。

 しかしこの相手との不要な軋轢など、本当に不要なものでしかなかった。

 どうにか上手くやり過ごして満足させ、早めにケリをつけることが最重要課題だった。

「分かったよ、悪かった。でも爺さん、本当に病院を出てきたんだな」

「俺はお前みたいにくだらん嘘はつかん」

「そのことは悪かったって。だけどそんな屋根もない場所にいて本当に大丈夫かよ。今日は結構もう暑いけど」

「俺の心配などしなくていい。どうでもいい無駄話はいいからこっちに来い、怜。ほら、阿呆な顔してぼけっと突っ立っとらんと、きびきび動け」


 鬼軍曹を思わせる顔つきの杉川は顎を杓ると先を歩く。

 先導する彼に案内されたのは、裏庭の片隅にある物置だった。

「家の周囲の草刈り、落ち葉拾い、花壇の修復。やれ」

「は?」

「必要な道具はその物置にある。古びてはいるが使えるはずだ。これは俺からの餞別だ。それじゃ俺は快適な室内でゆっくりくつろいでるから、お前は外であくせく働け」

 手にした手ぬぐいを放ると、杉川は背を向けて戻っていった。

 楽観視はしていなかったが、事前の悪い予感が足元に到着していた。

 深津は頭上を仰いだ。

 見上げた空は青く、微風は高温の空気を掻き回して、響き渡る蝉の声が耳につく。

 まだ九時だが体感的に既に三十度に達している。相手の心配などしている場合ではなく、自分の心配をしなければならなかったようだった。

「……やるか」

 どうあってもやらなければならないのは、昨日から変わりない。

 物置の戸を開けると、言われた通り様々な道具が並んでいる。

 草刈りに落ち葉拾いに花壇の修復。それらに必要なものを一通り物色してみると、大方揃っている。


 深津はまず草刈りから取りかかることにした。

 物置から鎌と竹ぼうきを取り出し、棚に放置されていた使い古しの軍手をはめ、所々破損した麦わら帽子を被り、首に渡された手ぬぐいを巻く。その姿はどこから見ても野良仕事中の年寄りのようだったが、そんなことは気にしていられなかった。

 冬に幾度も枯れては、再生し続けた雑草を端から順に刈っていく。

 しかし作業を始めたばかりの手を深津は止めた。

 やるのは現在取りかかっている裏庭部分だけでなく、家の正面や側面部分もある。自分の作業スピードを鑑みれば、どう考えても今日一日で終わるはずもない。

 今はとにかくやり始めた裏庭部分に集中して作業をする。闇雲にやるのではなく、短期目標を立てながら進めなくては、この茫洋とした落ち葉の海に瞬く間に呑まれてしまいそうだった。

 再度草を刈り始め、ある程度進んだら竹ぼうきで落ち葉ごと掻き集めて山にする。

 単純だが永遠に続きそうなそんな作業を繰り返していると、午前の数時間はあっという間に過ぎていった。


「おい、怜。昼飯だ」

 汗を拭きつつ顔を上げると、杉川がサンルームから呼びかけている。

 裏庭に続く扉から入ると早速「こいつを起こせ」と指示される。

 彼が指したのは、床に横倒しになった洒落た作りのガーデンテーブルとチェアだった。壊れてはいなかったが、大量の落ち葉に侵食されて廃墟の残骸のようになっていた。

「これでいいか」

「ああ」

 起こして並べると、杉川が手早く布巾で汚れを拭う。彼は一度サンルームを出るとすぐに戻ってきた。その手には料理の載った皿とワインのボトルがある。

「ほら、食え」

「えっ、食えって、これって爺……」

「黙って食え」

 置かれた皿を見下ろすと、彩りも美しい冷製パスタがある。

 訊きたいことはあったがそれは許されない雰囲気だった。深津は言われた通り黙って席に着くと、杉川が用意した昼飯を食した。


「爺さん、これ……すげぇ美味い……」

 一口食べただけでそれは分かった。大概の飯を美味く感じる舌の持ち主である深津だったが、未体験の未知の味を持つ料理であるのが分かった。

「ほら、飲め」

 グラスには白ワインが注がれる。

 午後の作業を思って深津は惑ったが、結局は口にした。酒も大体同じように感じる方だが、これも別格であるのはワイン知識が皆無でも分かった。

「ごちそうさん、すごく美味しかった」

 午前の疲れを癒しつつ料理を平らげた深津は、隣で様子を見ていた杉川に礼を言った。

「ふん、美味いのは当然だ。俺が作ったんだからな」

「へぇ、謙遜はしないんだな」

「そんな時期はとっくに過ぎた。礼は遠慮せずありがたく受け取っておく」

 杉川はそう答えてグラスを呷る。

 深津はその姿を一瞥して、些かの不安を覚えた。

 勧められるままに飲んでおいて忠告できる立場ではなくなっていたが、杉川のペースはやや速すぎる。

 躊躇はしたが、やはり注意を促すことにした。


「なぁ爺さん、そんなに飲んで大丈夫か?」

「何だ? 俺に説教か? 餓鬼のくせに」

「自分のことだから分かってると思うが、ガキでも忠告はするよ」

「いらん心配だ。お前が言った通り自分のことは分かってる。だから死ぬ時期も分かってる。これしきの酒を喰らおうが、何も変わらん」

「そっか、じゃ分かったよ。好きなだけ飲め」

「ああ? 好きなだけ飲め? 阿呆か! 俺を殺す気か? ふざけるな!」

「は? 爺さん、止めてほしいのか放っておいてほしいのか、どっちなんだよ?」

「うるさい! 口数の多い餓鬼だ!」

 ボトルとグラスを手に取った杉川は、そう言い捨てて家の中に戻ってしまった。

 昼休みは唐突に終わり、置き去りにされた深津には放られたような気分が残ったが仕方なく肩を竦めると、午後の作業を始めることにした。

 途中にしていた作業を再開させ、黙々と同じ動作を繰り返す。

 日が暮れる頃にはどうにか裏庭一帯は見られるようになったが、結局今日は当初の予定以上に進めることはできなかった。他の箇所や花壇修復には全く手をつけらず、それにこうなれば落ち葉に埋もれたサンルームもどうにかしたい思いもある。でもそこにまで辿りつくには、まだまだ多くの時間を必要としていた。


「ふん、半分以下ってとこだな。明日もやれ」

 本日の進捗を一瞥した老人が玄関先で不機嫌そうに告げる。

 覚悟はしていたが敢えて宣言されると、やはりという思いが身を少し重くする。

「裏庭は大方終わったよ。どうだった?」

「まぁイマイチ雑だが、いいだろう」

 労いもイマイチ見えてこない言葉には疲労も増す。

「明日は遅れずに来いよ、怜。五分前集合」

 老人はそう言い渡すと背を向け、扉を閉める。

 陽も翳り、暑さも幾分か収まった道を深津は疲れた身体を引き摺りながら戻った。

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