6.約束
翌日午前、深津は杉川の屋敷前に再び立っていた。
昨日と同じやり方では、失敗を繰り返すのはもう分かり切っていた。ならばと別の策を考えなければならなかったが、昨夜はいつも以上に邪念が多すぎて何も浮かばなかった。
つまりは完全無計画状態でここに立っている訳だったが、毎度のように逃れる選択肢は与えられていない。さすれば当たって砕けろと、多少行き当たりばったりの状態だった。
傾いた門を抜け、壊れた呼び鈴に挑むことなく深津は拳で扉を叩いた。
無視という名の居留守を使われるのは想定内だったが、向こうはやはり当然の如くそれを駆使してきた。
二、三度扉を叩いたが、返事はない。
深津は昨日と同様に家の外周を廻ってみることにした。室内を外から覗き込んで、いれば呼びかけようと考えたが、昨日と同じくどの部屋も暗く人の気配はない。
夏であるのに寒々とした景観は変化なく見えたが、より生の気配が希薄になっている気もした。蓄積した落ち葉や枯れた草花の腐敗が進んでいるようにも感じる。
位置的に屋敷の真後ろに当たる裏庭に辿りつくと、サンルームが見えた。
途端、昨日はなかったものが目に飛び込んでくる。くぐもった硝子の向こう、床を覆う落ち葉に埋もれて見覚えある老人が倒れていた。
「おい、爺さん! どうした? 大丈夫か?」
深津は慌てて駆け寄って呼びかけるが返事はなく、運よく無施錠だったサンルームの扉を開いて中に入った。
傍に屈んでもう一度声をかけたが、やはり反応はない。そのままうつ伏せ状態の相手を抱き起こそうとして、不用意に触らない方がいいと手を止めた。今ここで自分ができるのは救急車を呼ぶことだけだった。
救急車はすぐにサイレンを鳴らしてやって来た。救急隊員は役立たずの一般人とは違って、的確な処置を施すと杉川を運んでいく。
「ご家族の方ですか?」
「いえ、俺は……」
「これから
救急隊員はそう言い残して、サイレンは遠離っていった。
荒れた庭に取り残され、深津はこれからどうすればいいかを考えた。
杉川がいなくなった今、自分がここにいる理由はない。家に帰るしかないが、それではいつまで経っても新木戸の指令は果たせない。
深津は杉川の家を離れると歩き始めた。
大通りにまで出るとタクシーを拾い、この辺りでは一番大きい藤花病院に向かう。病院には十五分ほどで着いたが、待合室は外来患者で溢れていた。
とりあえず向かった受付で杉川の現状を訊ねる。現在処置中であるのを伝えられ、指示された外科の待合室で待つ。面会が可能になったと担当の看護師に伝えられたのは到着してから四時間は経過した、午後を過ぎた頃だった。
「何だ、お前か」
向かった病室で杉川が発した第一声はそれだった。
でもそんな口を利けるまでには、それなりに回復したのだろうと深津は思った。
歩み寄って傍のパイプ椅子に腰を下ろすと、半身を起こした杉川がこちらを見る。容態を訊ねようとするが、向こうが先に口を開いた。
「お前が呼んでくれたらしいな、救急車」
「ああ」
「どうせまた詐欺紛いの言葉を並べに来たんだろう?」
「まぁな」
「ああ? お前、そういう時は嘘でも違うって言っとけ、阿呆が」
「そう言っても、あんたにはどうせ嘘だって分かるだろ?」
「そりゃそうだな、だがまぁとりあえずお前には礼を言う。助けてくれてありがとうよ」
不意に向けられた言葉に深津は無言でいた。
ストレートすぎるその類のものと対峙させられると無性に逃げ出したくなるのが常だが、それ以上にこの相手からまさか礼を言われるとは思っていなかった。
「ああ、まぁ、それはいいよ。そんなことより爺さん、具……」
「杉川さん、お加減はどうですか?」
再度訊ねようとしたが、絶妙なタイミングで担当医が病室を訪れていた。その口調と同じく優しげな顔をした中年医師がベッドに歩み寄った。
「ああ、悪くはない」
「それはよかったです。ですが杉川さん、最近薬を飲まれてませんよね。先日の予約日にも来院されませんでした。責めているように感じられると思いますが、こんなことが続けば……」
「分かっとる」
「しかし……」
頑なな相手の様子に医師は言い淀んだが、再び硬い表情で口を開いた。
「……杉川さん、お話があります」
深刻な雰囲気が病室に漂った。
だが重々しい口調の医師と向き合う相手は微動だにせず、当惑する彼の視線はそのままこちらに向いた。退室するように促されているのを容易に察して深津は椅子から腰を浮かせた。
「いや、そいつは、いていい」
「けれどご家族の方では……」
「いいんだ、
会話から感じていたが彼は今日限りの担当医ではなく、杉川の主治医であるようだった。
座り直した深津を一瞥した山内医師は杉川を見据え、その後、噛みしめるように言い渡したのは、自らが担当する患者の病状が著しく芳しくない状態にあるということだった。
来院した時には既に施す手段もなかった。
末期の癌。余命は僅か。
傍で耳を傾ける深津に伝わったのはそれらの情報だった。
しかしそれは語る医師にとっても、杉川にとっても既に周知のものでしかなく、彼は患者の病状がより芳しくない状態で進行中であるのを伝えたかったようだった。
言葉の最後に山内医師は入院を強く勧めたが、杉川は頑として首を縦に振らなかった。
「また来ます」と言い伝えた彼が去った後、病室には静寂だけが漂った。
死は誰の傍にもあることを深津は自らの身を以て知っている。
だからこそ相手への感情を、どのように向ければいいのか思いつかない。
長く続いた静寂を破って口を開いたのは、杉川だった。
「おい」
「……何だよ、爺さん」
「お前、名は深津だったな」
「ああ」
「下の名は?」
「怜」
「ならはっきり言え、怜。土地建物なんたらとお前は名乗っとったが、あれは嘘だろ?」
「ああ、嘘だ」
「だがあの家は欲しい。ああ、もう嘘はいらん。こっちには分かってる」
「……そうだな。まぁ大体爺さんの思ってる通りだ」
「そうか。でも俺はお前の事情など知らんし、知りたくもない。だが怜、あの家をお前にやってもいい」
「えっ?」
何がどうなってそうなったのか、突然の相手の言葉に深津は驚いた。けれどももしその通りに事が進むなら、自分が求める目的達成に近づくことになる。
でも杉川の中で一体どんな心境の変化があったのか謎すぎる。棚からぼた餅のようなこの展開を手放しで喜んでいいのか分からない。
疑念を手放すことができず、深津は探るように言葉を向けた。
「爺さん、どうして急にそんなことを言い出すんだ?」
「俺の人生はもう残り僅かだ。それは変えられん。なぁ怜」
「何だよ」
「家はお前にやる。だがその代わりに俺の命令を聞け。先のないこの老人を心ゆくまで満足させてくれたら、俺の持ってるものは全部お前にくれてやるよ」
届いた返事は正確な答えになってない気もした。
しかし相手の要求を呑めば、目的は果たせる。
相手の性格やこれまでの経緯を鑑みれば面倒事にならないとは言い切れないが、それを含めた全てが自分がやらなければならないことでもある。
「明日の朝九時、俺の家に来い」
「俺の家って、爺さん、病院にいなくていいのかよ?」
「はぁ? こんな所にいつまでもいられるか、馬鹿馬鹿しい。いろと言われてもとっととおん出てやるよ。そんなことより怜、お前明日、来るのか来ないのか、どっちだ?」
「分かった、行くよ」
「もし来なかったら末代まで祟ってやるからな」
「俺を末代まで祟るのは無理だろうけど、怖いから行くよ」
そう返すと老人はベッドの上で不敵に笑う。
一抹の不吉な予感を感じないでもなかったが、引き返す訳にもいかない。
「俺はもう休む。お前はとっとと帰れ」
「ああ、帰るよ。お大事にな」
「余計な言葉はいらん。明日は遅れるな」
相手は横になると背を向ける。
予想以上の不安が増大するが、先は微かに見えてきた。
淡い期待を胸に病室を出ると、深津はようやく帰宅の途についた。
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