5.二人の夕食

 深津が疲労を抱えて帰宅すると、藍野は台所で夕食を作っていた。

 今日は日曜だが、彼は平日でもできる限り自炊していた。

 深津は生前も今も料理とは無縁だった。そんな人間が得意とするのはいつの世でも、カップラーメンにお湯を入れることぐらいだった。


「ただいま」

 声をかけると、藍野が背中越しに「おかえり」と返す。

 それを聞く度、深津は毎度ここに帰ってきてもいいと確認しているような感覚に陥るが、同時にこそばゆいこのやり取りを後ろめたくも感じている。

 一度手に入れたものは、それが失われるまで傍にある。

 こんな自分が手にしたものを失う以外になかったことにするには、藍野と出会った九ヶ月前に時間を戻すしかない。でもそれは不可能でしかなく、しかしそうなれば今度はその不可能さを言い訳にする自分に多少うんざりもしている。


「何作ってるんだ?」

「肉じゃが」

 1DKの部屋には煮物の美味そうな匂いと、飯の炊けるいい匂いが漂っていた。

 藍野は同時進行で小松菜とわかめ、刻み揚げ入りの味噌汁を作ると、出来上がったそれらを見た目もよく盛りつけている。

「いただきます」

「ああ、いただきます」

 席に着いて手を合わせる。

 無骨に見える外見に反して、藍野はちゃんとした食事を作る。料理に始まり、家事全般をこなす彼を見習うのは深津には困難でしかないが、「いただきます」と手を合わせてから食べ始めることぐらいは真似できた。

 今夜の飯も美味いと深津は思う。

 藍野と暮らし始めて、初めてこんな食生活を送った。

 生前、子供の頃は菓子パンが一番のごちそう。それにすらありつけるのは稀だった。

 大人になってからはコンビニ弁当や外食一辺倒。それでも食べたり食べなかったり、食べたとしても深夜や不規則な時間ばかりだった。だからこうやって規則正しく食事を摂ることを知って、いかに過去の自分が大事なことを見過ごしていたか分かる。もちろんそんな環境になかったと言い訳もできるが、努力したこともなかった。


「藍野」

「何だ?」

「昼間、実夜としてた話だが……」

 深津は食事も終わる頃にそう切り出した。

 雨夜での実夜と藍野の会話。

 それが昼からずっと頭の片隅に残っていた。言葉にするのには多少勇気がいったが、なけなしのそれを絞り出す必要があったのは自分がこの話を聞いて、何らかの反応や思いを示さなければならないと感じていたからだった。

 小耳に挟んだ話だと、このまま反応せずにいることもできた。でもそれではいつまで経っても奥歯にものが挟まったような状態が続くはずだった。気の利いた言葉など無論言えなかったが、なかったことにするのは違う気がしていた。

「親父さんのことだけど……」

「ああ」

「俺にできることは多分、あんまりと言うか全然ないけど、まぁ、えーと……困ってどうしようもなくて、猫の手でも借りたいって時に思い出す程度に俺のことは記憶の端にでも置いておいてくれ。ああ、もちろんそうなっても何でもできるって訳じゃないけどな」

 告げて相手を見ると、そこには微妙な表情がある。困惑と表現するのが一番近かったが、藍野はそれを消すと微かに笑んだ。

「何だよ、何かおかしいか?」

「いや、深津からそんな言葉を聞けるとは思ってなかった」

「は?」

「関わらなければならなくなったもの以外でも、自ら関わろうとしているように見えたからな。でも確かに意外だが、それは悪いことじゃない。笑って悪かったな」


 届いた言葉に深津は黙った。

 今の自分は恐らく妙な表情をしていると思った。

 それを表現するのに一番近い言葉は、穴があったら入りたい。

 一度席を立った藍野は、急須と湯飲みを手にすると戻ってきた。

「深津にはもう大方伝わってると思うが、今俺の父親が体調を崩してる。血圧が元々高い方で前から心配はしてたんだ。親父は以前再婚したが、あまりうまくいかなくて今は田舎で一人で暮らしてる。子供は俺しかいないから、頼ってほしいと思ってるが向こうにとってはそうもいかないようだな」

 藍野は番茶を淹れた湯飲みを差し出すと、少し困ったように笑った。

 藍野と家族の関係性。深津にはそれを多少は想像できるが、状況を自らに置き換えてみることはできなかった。

 母親は物心ついた頃から家にいなかった。いたのは飲んだくれの父親と、三つ歳の離れた幼い弟。

 その時も今も、それは家族と呼べるものではなかった。あの頃を思い出せば逃げ出したい思いしか今もなかった。

「そうか。俺は父親に対してそんなふうに思ったことがないから、ちょっとどう言っていいか分からないな……」

「深津の親父さんは健在か?」

「いや……もう随分前に死んだ」

「そうかそれは悪かった……」

「いや、別にいいんだ。気にしないでくれ」


 呟くように答えると、食卓には先程までなかった空気が流れていた。

 過去を蘇らせて、つい身の上話に繋げてしまったことを深津は後悔していた。

 重さを増す雰囲気から逃れるように目を向けたテレビでは、ニュースが流れている。

 二十才の女性が殺されて遺棄された事件だった。犯人は見つかっておらず、現在被害者の交友関係を中心に捜査していると伝えていた。

「嫌な事件だな」

「ああ」

 藍野の言葉に深津は相槌で返した。

 不幸は常にどこででも起こっている。

 耐え難い不幸は自分にも十八年前に起きた。

 あの時失ったものは、今も姿を変えて自分の身にぴったりと寄り添っている。

 再び自分は何かを失うだろうか。

 身一つだけなら失うのは怖くない。

 しかし大事なものを得てしまえば、畏れる感情とは常に背中合わせになる。

 それに下すべき結論が何であるかは分かっている。

 でも自分はこれからもその事実から目を逸らし続けていくのではないかと、深津は思う。

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