3.ホテル『海溝』の住人
午後三時、ホテル『海溝』は今日も真夏の空の下で仄暗い気配を纏いながら来訪者を出迎えていた。
それが建つのは海にも近い街の外れ。しかし辺りを見回しても工場や船着き場しか望めず、一体どんな客層を想定して建てられたのか毎度疑問のみが残る。
煉瓦造りの外壁にクラシカルな内装。一般的なビジネスホテルより数段、それなりの体も趣きもあるが深津はここに来る度、類は友を呼ぶという言葉を思い出す。
雰囲気だけは立派な扉を開けると、ロビーがある。
フロントには、今日も誰の姿もなかった。
時折何かがぼんやりそこに立っているのが目に映ることもあるが、それについて深く考えると、無人のこの場所に大勢の気配を感じることがあるので今は何も思わないようにしている。
宿泊客らしき人間もたまに見かけるが、時代遅れのホスト紛いの格好をした胡散臭い山師風や、明らかにいかがわしい商売に関わっていそうな妙齢女性や、常にサングラスとマスクで顔を覆い、身元を隠した年齢不詳の男など、果たして彼らを宿泊客と呼んでいいかも分からない。
でもその中でも群を抜いて胡散臭くいかがわしく怪しいのは、今から自分が会いに行こうとしている相手であるのは間違いなかった。
毎回永久に閉じ込められるのではないかと不安を覚えるエレベーターに乗り、六階に向かう。
目的階に着くと暗くてひと気のない廊下を進み、六一八号室の前に立つ。
ノックをする前に視線を感じて目を遣れば、小学一、二年生くらいの男の子がこちらをじっと見ていた。整った顔立ちをしているが、随分小柄で、もしかしたらもう少し小さい子供なのかもしれない。笑いかけてみたが不安そうな表情の上に怯えを覆い被せて、すぐ傍の部屋に逃げ込んでしまった。
「どうぞー」
開けた扉の先では、新木戸が笑顔で迎えていた。
いつものように見回した部屋は変わらず簡素だった。あるのはベッドとサイドテーブルと二脚の椅子。
深津が知る限り、新木戸は三年余りこの部屋に滞在しているが、未だここには生活感というものが堆積しない。ホテルの清掃係が意外にも優秀であるという説も考えられるが、元よりこの男にはそんなものなど存在しないのかもしれなかった。
「何か飲みます?」
窓際の椅子に座る新木戸が訊ねていた。
傍のテーブルからグラスを取る彼の足元には、空の酒瓶が幾本も転がっている。
放っておけばこの男は
言える立場でもないが、この相手には底知れぬ不気味さを感じ続けている。こうやって呼びつけられた以上、何かを言い渡されるのは分かっていたが、何を告げられたとしても、この密閉空間で顔を突き合わせている状態よりはマシなはずだった。
「そういえば深津さん、私とあなたが初めてお会いしたのもこの部屋でしたねぇ。覚えてます? あれからもう三年……でしたっけ? 時が経つのは早いものですよ。あの頃のあなたはまるで暴れ馬のようでした。それはそれで大変魅力的でもありましたが、今のあなたも……」
「思い出話はいい。用件を言ってくれ」
「はいはい、あなたはせっかちさんでしたね。ですが私としても生前の悪行との均衡を保つために、善行を重ねなければならない素敵な業を背負ったあなたを少しでも和ませて……」
「いいから!」
「はい、はい、分かりましたよ、相変わらず情緒のない。見た目は私の好みなのに」
のらりくらりとしながらも感情を逆撫でるのを怠らない相手に、いい加減反論するのにも疲れて深津は向かい合う椅子に腰を下ろす。
相手は手を伸ばしてベッド上の封筒を取り上げると、こちらに差し出した。
「あなたにはある老人を、彼が居住する屋敷から立ち退かせてもらいたいのです。彼の名前や住所、諸々の小道具はそこに同封してありますので確認してください」
深津は差し出された封筒を無言で受け取るが、疑問を浮かべて相手の顔を見る。
いつもと趣の異なるその指令には、とりあえず困惑しか覚えなかった。
「老人を屋敷から立ち退かせろ?」
「はい」
「立ち退かせろってことは、つまり相手は出ていかないって渋ってるんだな。その上で追い出せと」
「まぁそうですね」
「一応言わせてもらう。今回のこれは善行ではなく、単なる嫌がらせだ」
「そうですね、表面的には確かにそう見えるかもしれません。ですが全然違います。こちらが様々な策を使って丁寧にお願いし、彼の方から出ていくよう仕向ける感じです」
「あのな、今言い直したみたいだが本質は何も変わってないのに気づいてるか?」
「深津さん、あなたが私を好きでないのは知ってますが、だからってそうやって悪い方にばかり取るのはやめてほしいですね。私としては家を明け渡した彼のために、介護施設も見繕ってますし、必要な諸手続きもきちんと済ますつもりです。考えてみてください。孤独な一人暮らしと似たような境遇の仲間が周囲にたくさんいる生活、どっちがいいですか? 善行は善行です。いつもと変わりはないですよ」
相手に言いたいことがもうない訳ではなかったが、これ以上やっても埒が開かない気がして、深津は封筒の中身を確かめた。
幾つかの資料と共に老人が住むという屋敷の写真も入っている。
築年数は経っているようだが、立派な造りの洋館だった。住所を確認すると立地も悪くない。それを思うと嫌な予感が些か脳裏を掠めた。
「新木戸、まさかとは思うが、俺にこの話を持ちかけたのは今度はこの屋敷を狙ってるからじゃないだろうな?」
「えっ? えっ? い、一体何を言い出すんですか、深津さん。い、いやですよ、わ、私がそんな下衆な思いでこの仕事と向き合ってるとでも? で、ですが確かにそのお屋敷がとっても素敵であるという事実は否定できないです……あのエントランスの素晴らしい柱、緑溢れる庭、光射し込むサンルーム……あの場所で存分にくつろぐ自分の姿を想像すると、ああ! もう!……あっ、いえ、げふんげふん……今のは私のただの妄想です。どうかお気遣いなく」
素知らぬ顔で相手はこちらを見る。
その全てがもうわざとやっているとしか思えなかった。しかしこれ以上突っ込んでも何もならないのは分かっていた。
立ち上がると新木戸が見上げる。
感情を読めそうで決して読めないその相貌に、深津は言葉を落とした。
「どうせ何を言ったって、やらなきゃならないのは変わらない。分かったよ」
「そうですか。それでは今から早速向かってください」
「え? 今から? もう日も暮れる。大体相手は家にいるのか?」
「彼はいつも家にいます。他人を避けているのか外出することもほとんどなく、必要な物資は全て宅配で賄っているようです。それと深津さん、時間は有効に使ってください。この指令に期限はありませんが、期限切れはあるのです」
「相変わらず何を言ってるか理解できないが、分かったよ、了解」
「それじゃ頑張ってください。私だけはあなたをいつだって応援してますから」
相手は言い伝えると、それが可愛いと思っているのか首を傾げてウインクして見せる。
それには無論鳥肌しか立たなかったが、慣れるしかないと思えば諦めもできる。
部屋を出る前に一度振り返ると、男はにやにやと笑いながら屋敷の写真を眺めていた。その光景には様々な感情が過ぎるのを止められなかったが、やるしか道がないことは分かっていた。
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