2.忘れられない想い出

1.昼下がり

 もし目前のこの光景をもっと以前に手に入れることができていたなら、自分は全く違った人生を送れていただろうか。


 日曜の昼下がり、深津の視線の先には談笑する三人の姿がある。

 周囲には漂うコーヒーの香りと、穏やかな人達の緩やかな会話。しかし深津はそれらから目を逸らすとその自問の先を考えるのをやめた。

 どれだけ考えても、それには意味がない。

 過ぎ去ったものをいくら振り返っても、目に映るのを許されるのは後悔だけだった。


「それじゃ実夜さんと藍野さんは、高校生の時からの付き合いなんですね」

 届いた清菜の声に深津は顔を上げた。

 八月も上旬、時刻はもうすぐ午後一時。

 ここ『雨夜』の外では蝉の声が響き渡り、うだるような暑さが続いている。深津は藍野と雨夜に昼飯を食べに来ていたが、食後のコーヒーを飲んでいたところ、この後仕事だと言う清菜が立ち寄っていた。

 他には店主である実夜の姿。先程までテーブル席で若い夫婦が昼間のビールを愉しんでいたが、少し前に帰っていた。


「じゃあ、えーと、その高校時代も入れてお二人は十年くらいの付き合いってことになるんですね」

「そうだね。でも改めてそう言われてみると長いね。あっという間だった気もするけど」

「そうだな」

 気づけば、話題は藍野と実夜の長い友人関係に関するものになっていた。

 藍野と実夜。性別も違い、見た目ももちろん異なる二人だが、深津は彼らがとても似ていると思っていた。どちらも分かり易い愛想よさもなく口数もどちらかと言えば少なく、だがどちらも表立った表現はしないが、いつも他者をどこかで気遣っている。

 そんな二人だからこそ、深津は当初彼らが恋人関係にあるのではと思っていた。しかしどちらに訊ねても互いに友人関係であると返答し、その答えに疑義を抱いたこともあったが、現在はそれが揺るぎない正解であるのは分かっている。

 二人が高校の同級生であるのは知っていた。けれど彼らが時に繰り出すあうんの呼吸のようなやり取りやその雰囲気から何となくそれ以前、幼少の頃からの幼馴染みだと勝手に思い込んでいた。でもその認識はどうやら違っていたらしい。


「へぇ、そうだったんだな。じゃ、実夜と藍野は高校以前は知り合いじゃなかったってことか」

「ああ。群青はここが地元だが、俺は中学二年の時に引っ越してきたんだ。理由はよくある話だな。親の離婚だ」

「そうか……」

「俺は母親の方についていくことになって、元々彼女の生まれ故郷だったこの街に来た。高二の時に母親は再婚してそのうち俺も独立して、今は会う機会も年数回になったが、元気にやっているようだよ」

「……そ、そっか。でもまぁあれだな、藍野にはこれまでそういった話を聞いたことがなかったな」

「別に機会もなかったし、敢えて言う話でもないしな。だけど敢えて言い伝える話もないんだ。両親の離婚の時も母親の再婚の時も、特に波風立つ出来事もなかった。今だって会う回数は減ったが、母親や父親と仲が悪い訳でもない。と言うか、何だ深津。そっちが話を振ったくせに、お前何か変に緊張してないか?」

「い、いや別にそんなことはないよ、藍野の気のせいだろ……?」


 深津はそう返したが、その指摘は間違ってなかった。何気ない質問が相手の生い立ち話に繋がったことに、少し後悔を覚えていた。

 誰かと関わりを持っても、相手の私的部分には敢えて踏み込まないようにしてきた。相手を知れば、向こうもこちらを知らざるを得なくなる。でも自分には語れることなど何もない。と言うより、胸を張れることなど何一つしてこなかった事実と毎回直面する事態に陥るだけだった。

「藍野、そういえばお父さんの件は大丈夫だったのか?」

 実夜が藍野に訊ねていた。藍野はその問いに苦い表情を一瞬滲ませた。

「ああ、どうにか説き伏せて検査入院はさせた。数日前に結果が出たようだが、今のところは大丈夫らしい」

「向こうに様子を見に行く予定は?」

「いいや、親父は戻ってこなくていいと言ってる。金も掛かるし仕事もあるだろうって、逆にこちらの心配をしてた。と言ってもこのところ俺もずっと戻ってない。一度様子を見に帰ろうとは考えてる」

「そう、もし何か必要なことがあったらいつでも言って」

「ああ、分かった、ありがとう群青」


 深津は隣の会話を無言で聞いていた。

 詳細を訊ねなくとも、藍野の父親が現在あまりいい状態でないのは伝わった。

 心配の感情は無論湧くが、自分に何かできるかと言えば、何もない。

 実夜のように頼りになる言葉も言えなければ、金銭面で支援できる訳でもない。それ以前に藍野が自分に何かを期待しているとも思えなかった。

 その事実には虚しい思いも過ぎるが、人にはできることとできないことがある。

 自分ができない方の人間であるのは分かっている。しかし時に何か都合のいい夢を見て、自分ができる方になれるのではないかと読み違えてしまう。

「怜、電話が鳴ってる」

 実夜の呼びかけに気づけば、ポケットの中で呼び出し音が鳴り響いている。

 取り出して確かめれば相手は予想通りの相手でしかない。「電話に出てくる」と声をかけて深津は一度店の外に出た。

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