12.交錯の夜

 時刻は八時を回ろうとしていた。

 平日であることもあってテーブル席に藍野、それとカウンター席に見慣れない中年男性客がいるだけだった。実夜は笑顔で語るその男性と話している。深津は清菜と店内を横切ると、藍野の待つテーブル席に着いた。


「悪い。先に少し始めてた」

「ああ、こっちこそ遅れて悪い」

 見遣ったテーブルには飲みかけのグラスと、苺の載ったホールケーキがある。手先が器用な実夜が作ったに相応しい出来のいい美味しそうなケーキだった。

「それじゃ誕生日おめでとう、清菜ちゃん」

「おめでとう」

「ありがとうございます」

 深津と藍野はビール、清菜はオレンジジュースで乾杯すると、カウンターにいる実夜、ついでに見知らぬ男性客もグラスを掲げて一緒に乾杯している。

 その後は話をしながら実夜が作った料理やケーキを食べ、穏やかな時間が過ぎていった。

 しかし深津はふとした拍子にいつもの幻を見る。

 見下ろす底の見えない闇は前にも増して深くなっているようにも感じる。

 再び我に返れば、傍には藍野と清菜の姿がある。

 いてはいけない場所に居続ける事実を強く実感するが、捨てられないさがに縋って離れられずにいる。

 深津は席を立つとその場を離れた。実夜に注意を促されながらも強い酒を注文し、グラスの中で溶けていく氷を見つめる。

 あの闇にいるのは自分だけでなければならないはずだった。

 もしいつか周囲の人達を巻き込むような事態が起これば、すぐにでもその闇に自ら墜ちるべきだった。


「あの、大丈夫ですか?」

 顔を上げれば、カウンターの男性客が心配そうに見ていた。

 実夜は席を外したのかその場にいない。少しくたびれたスーツ姿、優しげな顔をしているが特徴はあまり捉えることができなかった。

「ああ、大丈夫だよ。悪いね、心配してもらって」

「いえ、大丈夫ならそれでいいんです。あ、僕、東仙とうせんといいます。こちらの店にはたまに寄らせてもらってるんですよ」

「へぇ、俺は深津。よろしく」

「どうも、深津さん。しかしここ素敵なお店ですよねぇ。店主さんは美人ですし」

「そうだな」

「それで……あの、ちょっと不躾ながらお訊ねしたいんですが、深津さんが今ご一緒されているあの女の子はもしかして上原清菜さんではないですか?」

「……ああ、そうだけど」

「やっぱり! 実は僕、彼女を存じ上げてるんですよ。あ、でも彼女がやっておられるグラビアの方ではないです! 彼女が以前、端役でしたがドラマに出演されているのを見て、応援したくなる子だなぁってずっと思ってたんです! あっ、一応言っておきますが、僕は決してそういう類の性癖の持ち主ではないです! 既婚者ですし、彼女と同年代の娘もいますし、ドラマもその娘に誘われて観たんです! だから声を大にして断言しますが、そういう方向性のアレでは決してないです!」

「そ、そう……」

 深津は圧され気味に答えた。相手のその言い訳の必死さが逆に怪しくもあるが、万が一そうだったとしても、その時に自分が断固阻止すればいいだけの話だった。


「それで、内輪で楽しまれているところに水を差すようで少々気が引けるんですが、僕の方から彼女にファンだというのをお伝えして、その上で激励の握手をさせてもらえたりしないでしょうか? あっ! も、もちろん彼女がよければですけど!」

「ああ、それは別に伝えてもいいが、でもあんた、なぜ直接言わずに俺に言う?」

「えっ? だって深津さん……あなたまるで彼女の保護者のように見えてましたよ。だからあなたの許可がいる気がしたんです。先程から窺ってましたけど、ものすごく彼女のことを大事にしてるように見えましたよ」

「……一応言っとくが、俺だってそういう類のアレじゃない」

「分かってますよ、ただ父親代わりみたいに見えたってことです」

 相手には何気ない発言だったろうが、先程以上の複雑な感情が深津の心を過ぎった。そんなつもりはなかったが、娘を持つ父親目線で見ると自分はそのように映るのだろうか。

 自らも省みない分不相応なその立ち位置には、自虐が後追いするように過ぎろうとしたが、酔いも回ったのか今夜はもうこれ以上の思考は働かないようだった。

「清菜、ちょっと」

 深津は振り返って清菜に呼びかけた。

 今程の話を彼女に伝えると、予想通り笑顔の了承が戻った。

「本当に偶然でしたが、こんな所で清菜さんに会えるなんて光栄です!」

「いえ、こちらこそ。ドラマをご覧になってくれたそうで、ありがとうございます」

「これからも応援してます。頑張ってください!」

「はい、頑張ります」

 憧れの相手と握手し、東仙はその後もにこにこしながら浮かれていたが九時過ぎには帰っていった。店の扉が閉まるまで何度も手を振る姿には、晴れてもいなかった疑惑が再燃することになったが、もし本当に清菜を応援してくれる純粋なファンであるなら悪いことではない。


 十時も近くなり、送っていけという藍野の命令に従った深津は、清菜と連れ立って夜道を歩いていた。

 七月も終わりに近づき、真夏の様相も昼間はあるが夜はまだ涼しい。

「深津さん、この花、大事にします」

「あのさ、贈っといてなんだけど、結構な安物だよ?」

 笑って答えると彼女も笑うがしばらく無言が続き、最寄りの駅に到着しようという頃、呼びかけが届いた。

「深津さん」

「何だ?」

「私……深津さんや藍野さん、実夜さんに会えてよかったです。私がまだ小さかった頃にお母さんが亡くなって、三年前にお父さんも亡くなって、自分で決めたことだけど唯一の家族だった叔母さんの家を出た後はちょっと寂しかったんです。だけど深津さん達と知り合って、そう感じてたことも忘れてしまうほどに今は……あ、すみません……何だかこんなの今日の最後に湿っぽすぎますよね。深津さん、あの、今日は本当にありがとうございました」

 闇に映える白いワンピースを着た少女は、下げた頭を上げるとにこりと笑う。

 でも深津は上手く笑えなかった。

 三年前のあの夜の出来事が頭を巡る。

 誰かに糾弾されても、彼女から父親を奪ったのが自分であるとは今もこの先も口にすることはできなかった。

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