11.後日談

 その日から二日後の夜、深津は『雨夜』に向かって歩いていた。

 雨夜は藍野のアパートから徒歩で約十五分。少し交通量が多い幹線道路を渡った先の住宅地の外れにあるが、今夜はもう一つの目的地を経由してから向かっていた。

 猫の件の顛末は翌日に清菜に簡単に伝えた。色々事情が変わって展開が最初と異なってしまったことまでは伝えなかった。実際京子からクレームが申し入れられる事態もなかったらしく、あの件に関してはもう終わったと考えてもいいようだった。


「どうもこんばんはー、深津さん」

 道路沿いを歩いていた深津の耳に車の停止音とその声が同時に届いた。

 目を向けたそこには、運転席から身を乗り出して手を振る新木戸の姿がある。

 車は目を惹くクラッシックなジャガー。

 嫌な予感しかしなかったが、一応訊ねた。

「その車、どうした?」

「いやね、あなたがあの猫ちゃんを適所に配されたのを見習いまして、私もこの素敵な車を私という適所に配してみました。で、どうです? あの残念な兄妹より私の方がとっても似合っているでしょう?」

 長いご託を並べられなくともこの車が『あの車』であるのは分かった。いつも以上にご機嫌な相手を見れば、嫌な予感の倍掛けしかなかったが再び訊ねた。


「それ、どうやって手に入れた?」

「方法は残念ながら企業秘密です、と言いたいところですが、深津さんには特別に教えてあげてもいいですよ。聞きます?」

「……いや、やっぱやめとく。欠片でも聞かない方が身のためにもよさそうだ」

「そうですか、それは賢明とも言えますが、時には冒険してみるのもいいものですよ。私としても事の顛末を事細かに話してみたいという欲望もあるのです。あの車を手に入れるために実は私は私のアレをあー……」

「俺、聞きたくないって言ったよな?」

「そうですか。それは色々と残念ですが仕方がないですね。では私はこれで失礼します。今から新しい相手とデートなので」

「え? この前の相手はどうした?」

「あの夜はとても愉しかったですねぇ、相手もそれはそれは美味しかったです。でも萎んでしまったので、また新しいのに代えました。それじゃ、ごきげんよう、深津さん」

 死神男はそう言ってエンジン音を響かせて去っていった。

 あの男の正体は計り知れない。

 こちらがどうしようとその関わりは断ち切れないが、それならば悪戯に望んで多くを知る必要もない。今後も関わり合いは最低限にするのが賢明と言えるが、あの兄妹が車を手にできなかった結末に関しては、悪くないかもしれないなと深津は思った。


 幹線道路を渡り、その先の住宅街を進むと、闇にぼんやり浮かび上がる雨夜の看板が見えてくる。もう少しで到着という頃、深津は再び足を止めた。

「怜」

 その呼びかけに目を向ければ、反対側の歩道にすらりとした若い女が立っている。

 彼女の名はアゲハ。この街の繁華街にある『ブルーバタフライ』という店でポールダンサーをやっている。雨夜で時折顔を合わせて意気投合した彼女とは、別の店でも二、三度飲んだことがある。

「どうした、今から雨夜に行くのか?」

「ううん、今行ってきたとこ。これから仕事だから。そうだ、清菜ちゃん、今日誕生日なんだってね。おめでとうを言ってきたよ。あの子、やっぱりいい子だね。私の妹も同じくらいの歳なんだけど、あのわがまま娘とは大違いすぎて代わってほしいくらいだよ。だからさぁ芸能界なんてやめとけばいいのに」

「まぁ俺もそう思うが、それは清菜が決めたことだ」

「それもそうだね……じゃ怜、私行くね、また今度」

「ああ、またな」

 アゲハとは顔見知り以上の飲み友達と言っていいが、一ヶ月ほど前、二人して酩酊しすぎてそれ以上の関係になりそうになった経緯がある。だが向こうは以前と変わらず、それはこちらも変わらない。でも深津としてはこの件に関していつか自ら地雷を踏みそうな危惧を常に感じている。アゲハには申し訳ないが、今夜彼女がいないのは助かったという思いが先立った。


「深津さん、こんばんは」

 雨夜に着くと、店の前にいた人影に呼びかけられた。

 看板の仄かな明かりに照らされて立っていたのは清菜だった。小柄な彼女は暗がりに立つとより小さく見える。今夜の彼女は白いワンピースを着ていた。

「何だ清菜、外で待ってたのか?」

「いいえ、さっきまで中にいたんですけど、そろそろ深津さんが来る頃かなと思って」

「それでわざわざ出てきたのか?」

「今夜は店に一緒に行く約束だったので」

「律儀だな。まぁらしいと言えばらしいけど」

 そう言って笑いかけると、彼女も笑みを見せる。

 促して一緒に入ろうとしたが、その前に深津は持っていた色気も何もないビニール袋を手渡した。

「これ、プレゼント」

「えっ? でも今夜一緒に店に……」

「だからって手ぶらじゃなんだったから一応用意した。けど本当に大したものじゃないから期待はするな」

「あっ、これお花ですか?」

「花束にしようかと思ったけど、それ、きれいだったから」

「あの……本当にありがとうございます。うれしいです、深津さん」


 清菜に渡したのは白い小さな花の鉢植えだった。ここに来る前に立ち寄った花屋で調達したものだった。

 店ではラッピングも勧められたが、そこまでするのは過剰なようで頼まなかった。花の名前は聞いたが忘れてしまった。でも小さく可憐で彼女に似合う花だと思った。

「皆さんには気を遣ってもらって恐縮しかないです……藍野さんにも贈り物を戴きました」

「へぇ、あいつ、何渡した?」

「図書カードです」

「図書カード? まぁこれもらしいと言えばらしいが、これまた色気のない。俺も人のことは言えないけど」

「いえ、とてもうれしかったです。私が前に読書が好きだって言ってたのを覚えてくれてたみたいです。それに実夜さんはケーキを焼いてくれました。私、こんなに祝ってもらったのは叔母さんの家を出て、事務所の寮で一人暮らしになってから初めてです。だからうれしくって……」

 そう伝える彼女に深津は何も言えなかった。

 彼女が生い立ちに関わる言葉を漏らすと、いつも複雑な感情が過ぎる。

「そっか、それじゃもうみんな待ってるな、早く行こう」

 足元に漂う感情を振り切ると、深津は彼女を促して店の扉を開いた。

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