2.上原清菜

「あ、いらっしゃい」

「こんにちは、実夜さん」

 扉の前には緑色のチェックのワンピースを着た小柄な少女の姿がある。彼女が動く度に肩の辺りで切りそろえた髪が揺れる。

 その顔に魅力的な笑みを浮かべた彼女、上原うえはら清菜を深津はちらりと窺った。


「深津さん、こんにちは」

「ああ、久しぶり……」

「清菜、話すならそっちの席にどうぞ」

 早速実夜が新しい客にテーブル席を勧める。深津は今度は実夜をちらりと窺うが、彼女はちらりとも見なかった。

 孤立無援でしかない。

 深津は心の中で溜息をつきつつ、そう思う。

 実夜だけでなく、彼女に関しては藍野も少し対応が甘すぎるのではと感じ取っていた。でもその理由は深津自身も分かっていた。

 グラビアモデルをやりながら女優を目指す彼女が、傍から見れば非現実的でしかないその道を歩んでいたとしても、彼女自身が浮ついたところもない真面目で優しい子だからだ。一定距離を置きたいと考える深津も、彼女に冷たくできないのは分かっていた。


 テーブル席に目を向ければ、清菜は既に席に着いている。

 深津はアイスコーヒーを運ぶ実夜に性懲りもなく最後の助けを請うてみるが、やはり慈悲は与えられないようだった。

「えーっと、頼みたいことがあるんだって?」

 こうなったらもうしょうがなかった。潔く諦めた深津はテーブル席に移動して、声をかけた。清菜は飲みかけのグラスを一旦手放すと、「はい、そうなんです」と小さく答えた。

「早速訊くけど、それってどんなこと?」

「……えっと、私の知人の話なんですが、猫を取り戻してほしいそうなんです」

「猫?」

「はい、彼女の別れた彼氏が飼い猫を勝手に連れていってしまったそうで、それを取り返してほしいそうなんですが……」


 深津は語られた話を暫し吟味した。清菜のその頼みが簡単か簡単じゃないかと言えば、多分簡単な方だと思った。押しの強さが功を奏しそうなそれは、どちらかと言えば自分のような人間に向いている。

 しかし再び彼女に目を遣ると、そこにある表情はどこか暗い。

 店を訪れた時には笑顔もあったが今は終始表情を曇らせている。依頼自体が嬉々として伝える内容でもなかったが、滲み出るためらいのようなものが表情にも言葉端にも出ている。見過ごしてもいい気もしたが、言葉の方が先に出ていた。

「清菜、ちょっと訊くが、その猫を取り戻してほしい知人って一体どんな奴なんだ?」

「えっと、それは……この前一度仕事でご一緒した三田みたハルナさんって方です……」

「その彼女とは親しいのか?」

「いえ……」

「なぁこれは俺の推測だが、もしかして清菜はその三田って彼女に強引にこの話を頼まれたんじゃないのか? 押しの強い相手だと割とそのまま流されて断れないところがあるよな?」

 告げると清菜はうつむく。

 深津が清菜と知り合ったのは約九ヶ月前、彼女が男数人に絡まれていたのを助けた出来事がきっかけだった。


 清菜は女優としてはその時も今もまだまだだが、グラビアモデルとしてはある程度の実績は持っていた。ベビーフェイスに豊満なバスト、それが彼女の売りである故に深津は未だどのグラビアも直視できないでいる。でもそんな私的事情のない相手にしてみれば、清菜は単に肌の露出の多いグラビアモデルの一人でしかない。

 約九ヶ月前の夜、まだホームレス紛いの生活を送っていた深津の根城傍から男女が揉めている声が聞こえた。声の主は清菜と、彼女がグラビアモデルと知って絡んだ少々酒の入った三人組の若い男。

 放っておこうと一旦は見なかったことにした深津だったが、結局は見過ごせなかった。その時にした判断は今思っても魔が差したと言うに相応しい。

 男達とは穏便に済ますつもりだったが、つい売り言葉に買い言葉、次第に口喧嘩からただの取っ組み合いに進展した。昔取った杵柄でやり過ごせる自負はあったものの、相手が三人では分が悪かった。男の一人に地面に引き倒され、劣勢に陥ろうとした時、突然現れて魔法をかけたように場を収めたのが偶々通りがかった帰宅途中の藍野だった。


 深津はこの晩の出来事を今も時に思い出す。

 どうにか事なきを得て清菜は無事帰宅し、藍野に関してはその後飯を奢られ、同居に誘われ、今の生活に続いている。

 あの晩あの時、魔が差さなければ彼らとは知り合わなかった。

 それを悔やむこともあるが、あのまま見過ごしてしまえば彼女を助けられなかった。後悔の思いは今も消えないが、過ぎたことはもうどれだけ悔恨を繰り返しても、やり直すことはできなかった。

「そうですね。深津さんの言う通りです、本当にすみません。やっぱり自分が迷ったまま人に頼むなんておかしいですね、私……」

 しかしどうであろうと、結局自分も彼女に甘いのだと深津は認識する。

 けれどそれは甘いという簡単な言葉で片づけられるものでは決してなく、罪悪感を含むものであるのは分かっていた。

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