1.猫の瞳に映るのは

1.短い夢

『あなたの新しい姿はあなたの××××さんの姿にしておきました。新しい名前もこの私が考えておきましたよ。あなたの名前は今日から深津……』




「怜、起きろ」

 瞼を開ければ、磨かれた焦茶色のカウンターが目に入る。穏やかだが険が些か入り混じったその声に、深津怜は顔を上げた。

「そこに居座られたら邪魔でしかない。惰眠を貪るなら家で好きなだけやってほしい」

「ああ、ごめん、悪かったよ……けど悪いのは確かに俺だが、相変わらず言い方がストレートすぎるな、実夜……」

 深津は頭を振ると周囲を見回した。気づけばここには自分と、背後の席でのんびり食事をする常連の婆さんしかいない。平日の昼定食目当ての客はとうに捌けている。目の前の焼き鯖定食の皿も既に下げられ、カウンター越しには食器洗いに勤しむこの店『雨夜あまよ』の店主、群青実夜の姿がある。


「なぁ実夜、俺、いつから寝てた?」

「さあ? 店が落ち着いて、片づけを始めようとしたらそこに突っ伏してた。もしかして疲れてるのか?」

「いや、そういう訳じゃ……」

「そう、ならよかった」

「ならよかったって、できればもうちょっと心配をしてくれると、俺の心も癒されるんだけど」

「心配は心配が必要な相手にしたい」

「俺には必要ないってことか?」

「それは自分が一番分かってるんじゃない? それより怜、コーヒーか水か何か飲む?」

「ああ、それじゃコーヒー」

 答えると相手は手際よくコーヒーを淹れ始める。

 ショートヘアにモノトーンの服、美人だが、きつめの顔立ち。

 硬めの口調も相まって初見の相手には人を寄せつけない印象を与えるが、この九ヶ月彼女を見てきた深津自身の感想を述べれば、九ヶ月ほどしかない目線でもその初見通りの人物でないと大体言える。


「どうもごちそうさまでした、実夜ちゃん。ごめんね、いつも時間取っちゃって」

「いえ、いいんですよ」

 いつからいたのかようやく食べ終えた婆さんがゆっくり店内を横切って、これまたゆっくり金を払って、ゆっくり店の扉に向かう。

 実夜はそれらを静かに待って、杖をつく彼女のために扉を開けると声をかけている。

「ありがとうございました。また来てください」

「ありがとう実夜ちゃん、また来るね」

 一見素っ気なくも映る彼女の他者との接し方は、少しばかり距離があるようにも感じる。でもその離れた場所からでも、彼女は他者をよく見ている。

 心配は必要な相手にしたいと彼女は言ったが、深津はそれが全てでもある気がしていた。そう言い切るには根拠不足の可能性もまだ残るかもしれないが、彼女が見ず知らずのホームレスにも馬鹿親切な藍野司朗の高校からの友人という捕捉情報をそこに足せば、あのお人好しと似たり寄ったりな人物だと言い切るのも早計ではないのかもしれなかった。


「怜」

「何だ? 実夜」

「もうしばらくしたら店に清菜が来ると思う。何か頼みがあるそうだ」

「……え?」

 実夜が湯気を上げるコーヒーカップを差し出していた。深津は半ば放心状態でそれを受け取るが、彼女はこちらの表情など特に気にするでもなく、食器洗いを再開させていた。

「怜が時々ここで引き受けてる仕事の一環と思ってくれていい。詳細は清菜から聞いてほしい」

「ああ……そう……」

 深津は小声でぼそぼそ返すと、手元のコーヒーカップを見下ろした。

 平日の昼は日替わり定食、夜は酒を出すこの店『雨夜』は、昔ながらの住宅地と新興住宅地の狭間にある。故に客は先程の婆さんのような年配者や、新しく越してきた若い夫婦や単身者など、元々店の雰囲気と居心地のいいのもあって、ここには近くの老若男女が多く集っていた。

 実夜はそんな彼らからちょっとした日常の困り事の解決を引き受けている。

 最初にそれを始めたのは、実夜の前に長らくこの店の主だった美山みやまという女性だった。周囲から信頼が厚かった彼女は人の相談に乗っているうちに、そのような依頼も引き受けるようになった。けれど困り事と言っても大それたものではなく、お使いの代わりや簡単な家屋修繕や犬の散歩など、普段の生活で足りない手を貸すという程度のものだった。現在彼女は経営を引退し、孫の住む南の島に移住している。数年前に彼女から実夜に店が代替わりしても、それは続いていた。

 身元を示すものを持たず、元よりそんなものなど存在しない深津が生活のための金を稼ぐ手段は限られていた。日常的には後腐れのない日雇いの仕事を主としているが、収入はかなり不安定でもある。実夜はその姿を見かねてか、時に依頼の一部を回してくれていた。彼女の気遣いに深津は密かに感謝しているが、今日の話はいつもと事情が少し異なっていた。


「実夜、俺はもう帰る。定食とコーヒーの金はここに置いておくから」

「どうして帰る? 今から清菜が来るのに」

「だからだよ」

 実夜には感謝しているが、どうにも避けたいこともある。

 深津としては〝彼女〟の頼みを聞きたくない訳ではなく、ただ〝彼女との関わり〟をこれ以上深くしたくないだけだった。

 けれど時既に遅く、唯一の逃げ道を奪うように店の扉が開いていた。

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