3.待つ男

「どこ行ってた?」


 通りに出てコンビニ方面にぶらぶら向かおうとすると、その声が届いた。

 振り返るとそこには強面の仏頂面がある。手に持ったコンビニ袋越しに、明日の朝食用食パンと豆乳が入っているのが見えた。

 連れの名は藍野あおの司朗しろう

 約九ヶ月前、ほぼホームレス状態だった深津を拾った男だった。彼は何の得にもならない宿無し男に飯を奢り、人助けが道楽という金持ちでもない普通の会社員のくせに、最終的にはその相手を同居にまで誘った。当初は身体が目当てかと思ったこともあったが、じきに単なるお節介なお人好しと知った。

 一緒に住むようになって約九ヶ月、深津は間近で藍野を観察してきた。

 彼は見た目に反したそのお節介振りを日常の一部であるかのように、事ある毎に発揮している。素性も知れぬ相手を何も問わずに同居させる紛う事なき善人であるのは間違いない事実だが、その反面、譲らないところは決して譲らない部分も持つ面倒な男であるのも既に認知済みだった。


「ああ、悪い。ちょっと小便したくて」

「トイレならコンビニにもある」

「使用中だったんだよ」

「ふーん、まぁいい。これ以上は何も訊くまい」

 そう言って歩き始めた藍野に深津も続く。

 すれ違う通行人を避けながら、深津は長身の背中に話しかけた。


「何だ。珍しく小言を言わないんだな」

「言っても無駄な虚しさを繰り返して、俺も学習した。引く時は引く」

「あ、そう。それじゃ今後もその方向性で頑張って」

「今言ったことをすぐにでも後悔しそうだな」

「まぁそれを繰り返すのが人生だ」

「偉そうなことを言ってるようだが全部お前のことだからな。そうだ深津、この前清菜せいなちゃんに約束してた誕生日プレゼントだが、何にするか決めたか?」

「あ、ああ……そういえばそんな約束をした気がするな……でもプレゼントか……俺、そういうの得意じゃないんだよな、何だか面倒臭く……」

「それについては言わせてもらう、面倒臭がるな。お前が二日酔いの頭でした曖昧な約束でも、言った責任はきちんと取れ」

「……分かったよ……けど一体何を渡せばいいのか……なぁ、十八才の女の子って何が欲しいんだ? 分かるか? 藍野」

「二十六才、妹もいない俺に分かるはずもない」

「やっぱり実夜みやに訊くか……」

群青ぐんじょうには頼らないと、あの時謎の大見得を切ったのを忘れたか?」

「……そうだった」

「でもまぁ、もう一度話せば彼女なら聞いてくれるさ」

「だとしてもあの日の俺の軽率ぶりは一体何だったんだ……? 軽はずみな上にあまりにも愚かすぎる……」

「元々群青の店にはこれから行く予定だった。どうするにしても行ってから考えればいいさ」

「……意味不明なあの日の自分を今更ながら叱咤したい……」

「深津、いつまでもぐだぐだ言ってないで今ある現実を見ろ」

「だけど藍野」

「俺は先に行くぞ」


 煮え切らない相手を置き去りにして、同居人は賑やかな通りを先に行く。

 深津は肩を落として後を追おうとしたが、不意に足元が揺らぐのを感じた。

 顔を上げれば、そこには闇しかない。

 頭上で微かに瞬いていた星も、雑踏も藍野の姿も消え、闇しかない。

 目の前には転々と蝋燭が灯り、それにいざなわれるように進めば、行き着いたのは墓場だった。

 湿った土が深く掘られ、まだ埋められることのないその墓穴の縁に立つ。

 真下を覗き込めば、底の見えない闇が続いていた。

 現世にへばりつく存在である自分は、未だそこに墜ちる予定はない。しかし闇深いそれから逃れられることもない。〝生前〟罪を重ね続け、罪もない人を死に追いやって自らも死んだ。

 この名もこの姿も本来の自分のものではない。

 罪という〝債務〟をささやかな善行で贖い続けなければならない、いつ終わるかも分からない二度目の不確定な人生。

 土の臭いと腐臭のするこの場所が、本来の自分の居場所だった。


「深津、どうした?」

「いや、何でもない……今行く」

 気づけば変わらぬ雑踏がある。

 深津は返事を戻すと、のろのろと歩き始めた。

 多くを望もうとすれば、この幻を見る。

 過去と底の見えない闇からの警告。

 あの幻は、浅はかで身の程知らずな自分への戒めだった。

「ああ、分かってるって」

 人知れず深津は呟く。

 そうすれば足元にあり続ける闇は、束の間の赦しだと言わんばかりに暫し息を潜めてくれるようだった。

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