2.観る男
「……頼むから暴れないでくれ。あんた、見た目より結構重い」
「お、お、落ちる……」
「そりゃ落ちるよ。落ちるようなことをしたんだから」
左手で柵を掴み、右手で若者の手首を強く掴む。
深津としては体力にはそこそこ自信があるが、笑って引き上げられるほどの腕力自慢でもない。こんな事態は予測外だったが、下の通行人達に何も気づかれていないのは不幸中の幸いとも言えた。
「た、助けて……」
「訊くけど、あんた死にたかったんじゃないのか?」
「し、死にたかったけど、こんなの怖いです、怖すぎる……僕、実際ここまでは来れたけど一時間もあの場所から動けなかったんです……た、助けてください、あ、あなただって僕を助けたかったんですよね? だから早く……」
「うーん、どうしようかな?」
「い、今、もしかしてどうしようかなって言いました……?」
「だって今ならタイミングを見計らって手を離せば、下の誰かが不幸になることもない。あんたは無事死ねる」
「な、何を言ってるんですか! 僕はもう全然死にたくなんかないんです! だから早く助けて!」
「えー、それってさぁ、本当に本心なのかなぁ? 今夜俺がせっかく助けても、明日の晩あんたがまたここに立ってる姿見るのやだしなー。えーっと、それじゃ引き上げてもいいけど代わりに一つ簡単な約束をしてもらおうかな。友達いない、彼女もいない、仕事も駄目だ、だから死ぬなんて、投げやりなことはもう言わないって」
「は、はいっ! 言わないです! もう二度と絶対言わないです! 明日から仕事も生活もまた頑張ります! だ、だから早く!」
「忘れるなよ」
「忘れません! 友達いない、彼女もいない、仕事も駄目だなんてもう言いません!」
「そっちじゃなく、死に瀕して怯えた方だ」
「え?」
「忘れるな。あれを思い出せば、まぁ大概のことは踏み留まれる」
「……え?」
「ほら、それじゃもうちょい踏ん張れ。今から引っ張り上げるから」
若者の身体を引き上げ、必死に柵の内側に戻ろうとする尻を押し上げながら深津はコンビニに目を遣った。
連れはどうやら買い物を終え、店を出ようとしている。
再び目を戻せば、三軒隣りのビルの上、空調設備が並んだ物陰で人影が動くのが見えた。ためらいもせずに二回分の溜息が漏れたが、目先の物事を順にやっていくしか自分に方法がないのは分かっていた。
「あ、あの、ありがとうございました……」
振り返れば、地面にへたり込んだ若者が見上げている。
顔には疲労が見えるが、死を望む気配はとうに消えていた。どう考えても安さしか感じない約束はさせたが、今後どうなるかは分からない。
自分は彼ではないし、彼は自分ではない。自らが望むように人が動く訳などあるはずもなく、しかし明日からは多少でもいい方に向いていくようにと、深津としては心の奥でそう願うしかなかった。
「あの……お礼をしたいんですが、僕今これしかなくって」
まだ震える手には皺になった千円札が二枚握られている。
「あのな礼なんかいらないって。貴重な金だろ? 大事にしまっとけよ」
「だったらせめて、名前を訊いてもいいですか……?」
「俺の名前? それは聞かない方がいいな。聞いたら呪われる」
「の、呪われる?」
「冗談だよ。じゃ、早くここから下りて気をつけて帰れよ」
若者に背を向けると、深津は屋上を出た。
階段を下りながら、携帯電話を取り出す。
番号登録が五件しかない古いガラケー。ゼロ番に登録された『死神男』に掛けると、相手は思った通りすぐに出た。
「終わった」
『滞りなく?』
「多分。でもあんたずっと見てただろ。三つ向こうの屋上から」
『あはは。やっぱり気づいてましたぁ? さすがは深津さん、それに今回のお仕事も迅速で的確でしたねぇ。自殺志願の青年をアメとムチで救うなんて、今日も人情味溢れる素晴らしい出来でしたよぉ』
「……何か連絡はある?」
『いえ、特にはないです。〝債務〟に変動はありませんし、また用があればこちらから連絡します。今夜はご苦労様でした』
「あのさ」
『ん? 何です深津さん。もしかして私に愛の告白ですか?』
「いやいい、じゃあな」
『あ』と向こうから声は続いていたが、深津は電話を切った。
これはいつまで続くのか。
それを訊きそうになってやめた。
いつか終わりは来るかもしれないが、それがいいものであるはずはない。
だから待ち望んでもいなければ、希望を抱いてもいない。
否、自分にはそのようなものを望む資格などない。
何かを望むのは罪で、それが許されないのが罰だった。
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