デッドマンスタンド・グレイブピットエッジ
長谷川昏
0.或る夜
1.墜ちる男
墓穴の
「やめとけば」
告げると、乗り越えた柵を後ろ手で掴んだ男がこちらを向く。
男は見たところ若い。二十代前半と言うより、表情の端々にまだ幼さを残す二十才前後。その顔には瞬く間に驚愕と疑問が浮かび上がるが、直後に吹き上げた風が屋上のへりに立つ彼の髪と身体を揺らし、それは掻き消された。
雑多な通りにある雑多な雑居ビル。
遠くに望む高層ビル群と比べればささやかなものでしかないが、落ちれば無事でいられない高度があるのは間違いない。
眼下の通りをそぞろ歩く人は少なくない。長かった梅雨が終わり、夜八時を過ぎた週末の繁華街を行く人達の足取りもどこか軽やかに映る。彼らのその頭上、肩を並べるように密集する飲み屋や風俗店の明かりもここまでは至らず、見知らぬ自殺志願の若者の姿には誰も気づいていないようだった。
「飛び降り自殺なんかろくでもない。もし飛び降りれば、下の連中は見たくもないものを必然的に見させられるだろうし、万が一誰かに衝突でもしたら最悪相手は死ぬ。あ、でもあんたがそれを狙ってるって言うなら、この説得に意味はないな。えーと、先に訊くけど実際そうなのか?」
「えっ? そ、そんなこと思ってません! ちっ、違います!」
「そっか。だったら説得の続きを……」
「ちょ、ちょっと待ってください! 一体あなた何なんです? い、いつの間にそこに?」
「俺? 俺は今そこの階段で上がってきた。それと何なのかと言われても、どう答えたらいいのか……」
「そ、そうじゃないです! 僕が言いたいのは説得だか何だか知りませんが、どうしてあなたも柵のこっち側に立ってんですかってことですよ!」
若者の視線は、同じく屋上のへりに立つ相手に縫い取られている。彼の言葉を受け取り、
そこにあるのは幅三十センチほどのコンクリートの足場。履き古した二十七センチのスニーカーは一応その場に収まって見えるが、一寸先は闇しかない。隣の若者はへっぴり腰で柵を掴み取っているが、そうしないと強風が吹けばすぐさまバランスを崩し、この場からおさらばする運命が待っている。
「うわぁ! あっ、危ない!」
「おっとっと」
しかし深津は彼のように何かに頼りもせず、その場に突っ立っていた。風に身体が持っていかれそうになる度に適当にバランスを取り、乱れた長めの髪を直す。
でも深津自身絶対的均衡力がある訳でも、絶対落ちない自信がある訳でもない。
不測の事態が起これば普通に落ちるだけだが、もしそうなってもそれでは自分が死ねないことは分かっている。けれども悪戯に落下してしまえば自らの発言に説得力はなくなるし、死を拒絶された身だとしても痛覚は機能しているので、敢えて落ちたいとは思っていない。
見下ろす通りには変わらず人が行き交っている。
正面の建物の一階に、コンビニエンスストアがあるのが見えた。パン売り場を物色する〝連れ〟の姿を目に留めて、深津の唇から溜息が漏れる。
ここでこの若者を救えという〝あの男〟からの指令は突発的だった。何も言わずにいなくなったことにあれやこれや小言を綴られる前に、予定外のこの急用を済ませるのが得策だった。
「だからやめておいた方がいい」
「だからって一体それ、どんな文脈ですか! 適当なことを言って誤魔化さないでください! いいえ、もうそんなのもどうでもいいです! 僕はもう駄目なんです! 友達もいない、彼女もいない、やっと見つかった仕事も全然思うようにいかない! 何をやっても駄目なんです! そんな僕の気持ちがあなたみたいに見た目もいい、人生愉しんでそうな人なんかに分かるはずもない! 生きてたって何もいいことなんかない! だからもう!」
「そんな狭い場所であんまり興奮するなって。ほら、もっとしっかり柵を掴んでろ」
「う、うるさい! こんなのももう離します! さっきから馬鹿みたいに必死に掴んでたけど、死にたいのにこんなのに縋ってるのは本当に馬鹿みたいですよね? だって僕はもう死ぬんだから!」
叫んだ彼が柵を手放したと同時に一陣の強い風が吹いた。
寄る辺を失った身体は引き寄せられるように闇に舞う。
悲鳴は響かなかった。しかし彼の顔には死への恐怖が貼りついていた。
数秒の後、下の通りが惨劇の舞台にならなかったのは、落下する若者の手を深津が掴み取っていたからだった。
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