じゃがいものスープの日

ももいくれあ

第1話

ワタシは病んでいた。

果てしなく。底冷えに。

左腕に見える赤い傷痕にも似たこの標(しるし)が

カレの唇の痕跡が

あの時の、ワタシを支えていた。

ほんの僅かな標と、ほんの微かな記憶、

きもちばかりの時間のカケラが

今のワタシを支えている。

だた、その思いに寄り添うだけで

なんだかすこしあたたかかった。

もう叶わないかもしれない。

まだ間に合うかもしれない。

そんなシーソーゲーム、

綱渡り的なココロの端っこにしがみついているワタシがいる。


酷く忙しい朝だった。

うんざりするほど騒がしくて、

みんな、好き勝手にお喋りを始めていた。

服にアイロンをかけてとか、

ベランダの花が枯れたのはワタシのせいだとか、

こんな晴れた日に洗濯物もしないでいつまで寝ているのか、

と皆いっせいに好きなように言いたい放題。

ワタシはお茶を用意したり、

トーストを焼いたり、

自家製ジャムを味見したり、

とにかく慌ただしい時間だった。

ひととおり準備が済んだ頃には、

皆静かにそれぞれの時間を過ごしていた。

ワタシは酷くホッとした。

と当時に軽い睡魔に襲われて

三度目の眠りにつこうとしていた。


ふっと目を覚ますと12時を少し回ったところで、

テーブルは散々に散らかり放題で

それでも皆が帰ったことがわかると、

やれやれと軽い目眩に襲われながらこめかみを軽く擦り

自家製ミントソーダ水を一気に飲み干した。

それはとっても刺激的で

脳内がシャキッと引き締まるような、

そんな心地よさと安堵感を同時にワタシに与えてくれた。


ワタシの日常は実に忙しくて慌ただしくて、

説明するのは面倒だった。

ただ、一つ言えることは

ワタシは酷く病んでいた。

その頃のワタシは、少なくともそう信じて疑わなかった。


散らかったテーブルを片付けてみたら、

今日はじゃがいものスープを作る日だったことを思い出した。

お手製のカレンダーに書き込まれた

ポツリポツリとした予定のような

出来事の中にそれはあった。

10月22日金曜日。

じゃがいものスープ。

ただそれだけが書かれていた。

一体いつ、誰が書いたのか、そしていつそう決めたのか、

そんなことはどうでもよかった。

ただ、今日はじゃがいものスープの日だった。

それだけがワタシの脳内を刺激する、

唯一の材料だった。

買い物に出かけよう。

じゃがいもといくつかの足りないものを探しに、

ワタシは久々に家を出る準備にとりかかった。

それは実は途方に暮れる作業の一つだったことを、

ワタシはすっかり忘れていた。

まずはシャワーを浴びなくては。

何日かぶりに鏡に映るワタシは、心なしかシュッとしていた。

馬のように滑らかな頬と犬の耳のような髪を撫でて、

少しだけ微笑んだ。

ワタシは犬顔でネコのような性格で馬のような頬を持ち

キリンのような脚のしなやかさを含んでいる。

まるでステキなこのワタシと、もう長い間付き合ってきた。

たくさんの人たちがワタシに語りかけ、

突っかかり、横殴りにしては、甘い声を出し、

通りすぎていった。

そんなみんなの話をまとめると、

つまりワタシはそういうモノらしい。

ワタシはその皆に言った。

アリ地獄ですよ。

その覚悟はありますか。。

最初は皆、得意げに、何でもなさそうに笑ってみせた。

でも時が経ち、重ねられた月日を振り返ると、

その面々はいつの間にかどこかとーくに

はるか彼方に足を向けていた。


さぁ、探しモノを見つけに出かけよう。

もうすっかり夕日が眩しくなり、

とーくの空に紫がかった色が見え始めた頃、

ワタシはじゃがいものスープのことをようやく思い出した。

結局、シャワーは浴びてなかった。

でも、そんなことは今は大した問題ではなかった。

それよりも、

今日はじゃがいものスープのことが重要だった。

少なくともワタシにとっては。


探しモノは、まず何を集める必要があるのか。

その見極めから始まった。

じゃがいものスープ。じゃがいものスープ。じゃがいものスープ。

一体何が入っているのか。

それには想像力が必要だった。

じゃがいも。これは確実だ。

牛乳。これは豆乳でもいいかな。。

バターで炒めたら深みが増すだろう。

あっさり仕上げたいから、あえて生クリームは入れない。

あとは甘味とコクと彩だ。

彩にはパセリでは風味が足りないので

ブロッコリーをげずって添えることにした。

チキンの手羽先スープでトロトロのコクを出すか。

お手軽な科学的調味料に頼るか。

これは迷うところ。

あとは。。。

やっぱり、甘味は玉ねぎが一番だ。


探しに行くモノははっきりしたが、

引っ越したばかりで

どこにどんなお店があるのかも知らないままのワタシには

それらを探しに何で向かうのか、

歩くのか、バスなのか、

もしくはタクシーで行く距離にあるのか

まったく見当がつかなかった。

家にはテレビもパソコンも見当たらなかった。

かろうじてあるのは冷蔵庫と洗濯機。

それらはワタシの唯一の助け舟だった。

この二つさえあれば、今までも何とか過ごせてきたのだから。


結局、まずは歩いて家を出て、

大通りと思われる道まで進んでみた。

意外と簡単にお店は見つかった。

ふぅ〜・・・

外側はすっかり、暗くなっていた。

どこかから微かに雨音が聞こえてきていた。

ワタシはふっとネコのようにキズ口を舐めては

治りかけたキズごとごっそり飲み込んだ。


じゃがいものスープを作る材料を揃えて家に帰ると、

玄関はあいていた。

誰か来ているのか。。

待ち合わせをしていたのかな。

ワタシは思い出せるだけの力をふりしぼって

眉間にシワを寄せてみたが、

答えは見つからなかった。

すこーし開いたドアの隙間からゆっくり中を覗いてみた。

電気はついているようだった。

喋りごえが聞こえる。

待ち合わせをしていたことをすっかり忘れていたのかもしれない。

ワタシは急に嬉しくなった。

じゃがいものスープは誰かと作る予定だったのだ。

勢いよくドアを開け、

部屋に駆け出したワタシは

脱ぎ忘れた片方のサンダルを買い物袋に急いで入れた。

お待たせぇ〜

遅いじゃない、もう何時間待たせるの!!

あなたっていつもそうなんだから、

本当にイヤになっちゃう。

グズグズしてないで、さっさとしなさいよ。

彼女はどんどん先に進んでいった。

そんなに慌てなくてもいいじゃない。。。

ちょっとだけ待って。。

ワタシは彼女にそう言って、

買い物袋からサンダルを取り出してベランダに置いてきた。

あなたが早くしないから、お腹が空いて、

今ピザを頼んだわ。

あと10分で届くそうだから、

まずはそれを食べることにしましょ。。

シーフードとトマトソースのハーフアンドハーフピザMサイズ、

サイドディッシュはサラダとスープ。

スープ・・・?

今日はじゃがいものスープを作る日でしょ!!

ワタシの声は少し強張っていた。

そんなことはお構いなしに彼女はぴったり10分後に

届いたそれらをスルスルと口に運び、

満足げにソファーから窓の外を眺めていた。


気がつくとワタシは暗闇の淵にいた。

水のようにゆらゆらと漂う声をとーくの方に聞きながら、

浅い眠りに踏み込んでいた。

彼女のお喋りはまだ続いていた。

いつまでも、

いつまでも続くそのなき声に軽い目眩を覚えた。

キーン、キーン、キーン、

耳鳴りの奥に何かを感じたけれど、

今はそれは大した問題ではなかった。

ふっと顔を上げ、

ワタシは

口の周りいっぱいについたトマトソースを黄色い服の袖で慌てて拭った。

見つかったかもしれない。

隠れなくちゃ。

隠さなくちゃ。

彼女に見つかる前に元どおりにしておかなくてはならなかった。

急いでピザの箱をテーブルの下に隠して、

サラダを冷蔵庫にしまった。

ああっ。。

テーブルの脚に引っかかってコーンスープをこぼしてしまった。

いけないっ・・・

もう手遅れだった。

彼女はすかさずワタシを見つけて、

こぼれたスープをどうするつもりか。

とワタシを攻めた。

仕方なかった。

スープをうっかりこぼしたのは間違いなくワタシだった。


でも、今日はじゃがいものスープを作る日だった。

ワタシはそのことを急に思い出して、

買ってきた材料をキッチンに並べようとした。

おかしいな。。

揃えたはずのその材料たちは、どこにも見当たらなかった。

さっきまで凄いけんまくで怒っていた彼女も、

もうすっかり静かになっていた。

ふっとベランダの方に目を向けると、

とーくの空がほんの少しだけ桃色に潤んで見えた。

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