第三話
翌朝、黒木が出勤すると、ロボット掃除機に名前がついていた。
「ゆるぼ?」
「ユルめの掃除しかできないからゆるぼ。なんかロボっぽい名前だし」
もはやペットの類である。当のゆるぼはといえば、また何もないところで引っかかって助けを求めている。
「ところで黒木くん、今日はちゃんと無視できた?」
ゆるぼを軽く叩きながら志朗が言う。はたと黙ったところを見透かされて、「さてはできてないね」と笑われた。
そう、できていない。背中を向けていればいい帰り道とは違って、朝はマンションを見ながら歩いてこなければならない。気になるのも相まってつい上を見上げると、やはり例の子供が目に入った。六階のあたりにいて、黒木にむかって手を振っていた。
三歳か四歳くらいの女の子のようだ。子供らしくふっくらした頬に下ろしたままの髪、ピンク色の服を着ているらしい。確かにこの距離で、これほど詳細に視認できるのはおかしい、と思う。そもそも、あそこの窓は磨りガラスではなかったか――そこまで考えて、黒木は慌てて顔を伏せた。何か見なくてもいいものを見ている、これ以上見続けてはいけないという気がしたのだ。
「よくないよぉ、対処できないものにかまうのは」
志朗はそう言いながら床の上にゆるぼを放してやる。「まぁボクも、あんまりひとのこと言えた義理じゃないけど」
「何かあったんですか?」
「ちょっと前に知り合った美容師やってる女の子がねぇ、何度もブロックしたんだけどね……」
「それ幽霊とかの話じゃないですよね?」
「本当に怖いのは生きている人間の方なんだよね」
「いや、志朗さんの素行に問題があるんですよ」
日頃の行いはともかく、「本物の霊能者」というものはどうやら貴重らしい。看板も広告も出さない志朗のところに、ほとんどひっきりなしに客が出入りするというのがその証拠だと黒木は思う。
志朗が言う「あらゆるものの悪意のきれっぱし」のようなものを、くっつけやすい性質の人というものはどこにでもいるらしい。それを引きはがされると、客はすっきりとした顔になって意気揚々と帰っていく。
そして彼らの多くは、一定期間をおいて再びやってくる。何もしなくても部屋の隅に埃が溜まるように、日常生活を送るうちに彼らの身にもまた厭なものがくっつき、蓄積していく。
「そういうのって体質だよねぇ。おかげでボクのようなものが食いっぱぐれずに済んでるわけですが」
客を見送った志朗が、巻物を巻き直しながらそう言った。「ところで黒木くん」
「なんですか?」
「何か厭な感じしない?」
そう言われて黒木はふと、以前この応接室を訪れた神谷という女性のことを思い出す。あのとき、彼女自身には好ましい要素しかないのにも関わらず、なぜか「厭な感じ」がしたものだ。そういうことを聞かれているのだろうと黒木は思った。
「――いや、特には」
「だったらいいけど。あのさ、何か厭な感じするなぁと思ったら教えてくれる? 前にほら、神谷さんが来たときみたいなやつ」
志朗は、以前彼の元を訪れた女性の名前を挙げた。彼女に限らず、厭な感じを漂わせている客はたまにいる。そのときのことを思い出すと、黒木は額に脂汗が滲むような心地がする。
「わ、わかりました」
「まぁ緊張せんでええよ。ここ一月は別に平気だったんでしょ?」
「はぁ、まぁ……そうですね」
「なんとなく厭だな~くらい、適当でいいから」
志朗はそう言いながら、スマートフォンの読み上げ機能でおそらくスケジュールを再生している。読み上げのスピードが速すぎて、黒木には相変わらず何を聞いているのかよくわからない。
「次のお客さんまでしばらく時間空くね。休憩にして――」
その時、チャイムの音が鳴った。オートロックのインターホンではない。玄関のドアについている方だ。同時にドアを拳でノックする音が聞こえた。
「あれ、二階堂くんだね」
志朗が呟く。
黒木は玄関を開けに向かった。声が聞こえたわけでも、姿が見えたわけでもないが、志朗が二階堂だというならおそらく当たっている。志朗のこういう呟きは大抵当たるものだと、黒木は経験から知っている。
案の定、玄関の外にいたのは二階堂だった。ぎょっとするほど顔色が悪い。額に汗をかきながらよろよろと中に入ってくると、三和土に膝をついて上半身を倒し、まるで土下座でもするような姿勢になった。
「えっ? ちょっ、ちょっと、どうしたんですか?」
「あ~~~~」
まったく要領を得ずにおろおろしている黒木の足元で、二階堂が別人のような声で「しぬぅ」と呻いた。
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