第二話

 とっさに反応できないまま、黒木は志朗がロボット掃除機をパンパン叩くのを眺めていた。

「そういえば黒木くんさ」

 話しかけられて途端に呪縛がとけたようになった黒木は、「えっ、どういうことですかそれ」と前のめりに問いかけた。

「んっ?」

「いや、人が住んでないって――えっ、あれですか? もしかして幽霊みたいなやつですか? 俺が見た子供って」

「まぁ幽霊みたいなアレなんじゃないの? 黒木くんもボクのとこに通ってる間に、そういうのわかるようになってきたよねぇ」

 そう言って志朗はなぜかニヤニヤ笑う。

「うわぁ全然嬉しくないですよ。えっ、俺何かした方がいいですか? どうしましょう?」

「黒木くん、面白いくらいテンパるね……」

「面白がらないでくださいよ! 俺、手とか振り返ししちゃってるんですが!?」

「じゃあ、次からは無視したらいいんじゃない?」

 志朗は至極あっさりと言い放つ。黒木の脳裏に、今朝の女の子の小さな姿が蘇った。幽霊だと聞けば途端に怖ろしい気もするが、とはいえ子供だ。

「……かわいそうじゃないですか?」

「黒木くんはいい人だね~ほんと。ボクだったら無視一択だけどねぇ。大丈夫大丈夫、見なきゃいいんですよ窓なんか」

 そのとき来客を告げるインターホンが鳴って、話は一旦立ち消えとなった。


「――って志朗さんが言ってたんですけど、本当ですか? 一階から八階まで、904号室の下は全部空き部屋って」

 帰り際、黒木はロビーで顔を合わせた二階堂にそう尋ねた。彼はこともなげに「ああ、そっすよ。ぶち抜きで空いてます」と告げた。

「下の階気にしなくていいから、快適じゃないすか?」

「いや、それはそうかもしれないんですけど、あの」

「あ、もしかして黒木さん何か見ちゃった的な?」

 夕方だというのにセットが崩れていない前髪を片手で跳ね上げて、二階堂はニッと笑った。

「だったら無視っすよ無視! 無視一択っすよ」

「志朗さんと同じこと言いますね」

「オレもそういうの時々見るんすけど、見るだけじゃなくてくっつけやすいんで、どうしてもそういう対応になっちゃいますね。無視が一番っすよ」

 そういえば以前、「憑かれる方なんで」などと言っていたような気がする。ともあれ下の階が無人だということは本当らしい。志朗はともかく(と言っては悪いが)二階堂までもが黒木を嘘で担ぐとは思えない。

 管理人室で電話が鳴り始めた。二階堂は管理人室とエントランスを交互に見て、「ちょっと失礼しまっす!」と言い、エントランスの自動ドアに向かった。エントランスの自動ドアは、外から開けることはできないが、中から開ける分には開錠の手続きがいらない。二階堂が自動ドアの前に立つだけで、ガラス張りの扉が静かに開く。

「すみません二階堂さん、いつも開けてもらっちゃって」

「いやー、いいっすよ全然」

 頭を下げながら、スーツを着た四十代ほどの女性が中に入ってくる。彼女とすれ違いながら、黒木はマンションの外に出た。

 自宅の方に向かって歩きながら、彼は振り向きたくなる気持ちを抑えた。

 今振り向けば、サンパルト境町の一角が目に入るだろう。その中層階の窓から、実体のない子供が真っ黒な穴のような瞳でこちらを見ている気がして、思わず背筋が冷たくなった。だが同時に、その子供はとても寂しそうな顔をしている気もする。

 背筋が粟立つような感覚と、罪悪感とを同時に覚えながら、黒木はその場を後にした。

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