第十二話

 祖母の死に顔は、まるで眠っているように穏やかだった。ベッドの上で亡くなっていたというから、本当に眠っている間に息絶えてしまったのかもしれない。ともかく、不審死と思われるような死に方ではなかった。最近風邪をひいて、体力が落ちていたということもある。何より祖母がもう九十歳で、それは仮に亡くなっても「大往生」と言われるような年齢なのだということを、私は再認識させられた。

 セレモニーホールを訪れた人は少なかった。内藤家は親しい親戚が少ないし、祖母の友人知人はすでに亡くなっていたり、入院している人が多い。それでもこじんまりした葬儀を終えて帰宅した頃には、皆がぐったりと疲れていた。こういうときの疲れというのは、普段の仕事を終えて感じるものとは異質だ。

 こんなに疲労しているときに、どうしてこの曰くつきの家に帰ってこなければならないのだろう。着替えてリビングのソファにもたれかかりながら、私が考えていたのはやっぱりあの部屋のことだった。

 祖母は間違いなく亡くなっていた。桃花のように昏睡状態に陥ったのではなく、本当に亡くなったのだ。医師の診断もある。これは確かなことだ。

 祖母の死に、あの部屋は関係ないのかもしれない。関係がある証拠なんてどこにもない――自分に言い聞かせながらも、あの部屋のことが気になって仕方なかった。祖母が亡くなったのはあの中ではない、自室なのだと心の中で訴えたところで、「誰かが運んだんじゃない?」などと疑いだしてしまえばおしまいだ。そして今度は「じゃあ誰が運んだのよ?」という、自分の心が生み出した疑念と戦う羽目になる。

「もう夜だなぁ」

 誰に語りかけるでもなく父が呟いた。

「お茶でもいれましょうか」

 綾子さんが立ち上がった。彼女もいつになく静かな口調だ。私が「手伝おうか」と言いながら体を起こすと、綾子さんは「じゃあ、いい?」と珍しく答えた。やっぱり疲れているのだろう。普段なら「大丈夫、美苗さんは座ってて」と言われるところだ。

 私たちはキッチンに移動した。湯が沸くのを待つ間、綾子さんが食器棚から皆のマグカップを取り出して、トレイの上に並べる。家族全員がそれぞれの好みで買ってきたバラバラのマグカップが誰のものか、彼女は当然のように把握している。

 すでにカップが五つ並んだトレイの上にもうひとつ、白地に花柄のカップを載せようとして、綾子さんははっとした様子で手を止めた。

 私も、そのカップが祖母のものだということは把握していた。仏壇にでもお供えするのだろうかと思って見ていると、綾子さんが「うっかり出しちゃった。バカねぇ、わたし」と言った。

「あー、さびしい。さびしくなっちゃった。ねえ、美苗さん」

 その声は、彼女の本心であるように聞こえた。

 思えばここ何年も、祖母と一番長い時間を過ごしていたのは綾子さんだ。離れて暮らしていた孫の私よりも、血のつながらない彼女の方が、思うところはあるのかもしれない。

 綾子さんはカップを手に持ったまま、右手の袖で目元を拭った。祖母の死が堪えているように見えた。何を言いたいのかわからないまま、私は「綾子さん」と声をかけた。そのとき、

「おばあちゃん、いるかしら」

 ぼそりと綾子さんが言った。「まだこの家にいるかしら」

 廊下の方からぱたぱたと足音が聞こえた。足音は軽やかに響き、廊下とキッチンを隔てるドアの前で止まった。あまりに自然な音だったので、誰かがそこにやってきたのだとしか思えなかった。なかなか開かないドアを、綾子さんがさっと動いて開けてやった。

 廊下には誰もいなかった。

 そういえば、家族は全員リビングにいるはずだ。そのことを思い出した途端、背筋がすっと寒くなった。


 このときから、真夜中以外にも得体の知れない物音が聞こえるようになった。

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