第86話 新しい今まで通りの生活

取り立てて何かが変わったわけではない。

厳密に言えば、確かにいろいろ変わったところはある。私の苗字が西園寺になり、盛大に部屋を片付けて、今は山下と一つ屋根の下に暮らしている。年老いたもみじも一緒だ。


山下の部屋だった元休憩処もみじは、二度目の改築を終えて、パン工房に生まれ変わった。もみじで販売するパンが全て手作りになる。おばあちゃんの息子さんが助けてくれることになった。実家に戻り、朝からパン生地をこねる。慣れない仕事をする不安よりも、生まれた町に暮らし、そこに自分の仕事があることが幸せだという。練習を重ね、試食を重ね、たくさんの商品が近く生まれることになりそうだ。実家とはいえ、今は私の物になってしまったので、賃貸暮らし。それも当然と受け入れ、毎月真面目に家賃を納めてくれている。山下と話し合い、支払われた家賃が相応の金額になった時、土地建物すべてをお渡しすることにした。サプライズが好きな山下は、家を貸すとなった時から、いずれは返そうと決めていたくせに、未だに黙っている。


高校生になる藍ちゃんがアルバイトをさせて欲しいと長期休暇のたびに店に来てくれるようになった。接客も慣れたものだし、最近は悩みも一人前だ。彼氏ができたなんて話が、ご両親より先に私のところへ飛び込んでくる。


山下は、演出家をしながら今でも店に出ている。舞台一本にした方がという私の助言は全く聞いてもらえないどころか、地方公演中の僅かな休みの日も店に出たり、工房でパンを焼いたりしている。本人曰く、体を動かしていないと気持ち悪いのだそうだ。みんなの協力もあり、休憩処もみじは軌道に乗って、山下がいなくても営業出来ているし、収入も得られている。それなのに山下が店に出続けるのは、店とこの町が好きだからにほかならない。


私の人生という船は、かなりの遠回りをしているし、何をもってゴールなのかすら分かっていない。それでも胸を張って言えるのは、自分自身がとても幸せだということ、そしてその結果が周囲を幸せにしているということだ。子供の頃に思い描いていた人生とは全く違う道を歩んだけれど、何一つ間違っていなかった。


「メイ、バゲット作り過ぎちゃったから、朝はみんなでフレンチトーストにしようぜ。」

おばあちゃんの息子さんが申し訳なさそうに頭を下げている後ろで、楽しそうな山下の声がする。

「了解!はちみつ出しておいて。」


ステージとは全く違う種類の汗を流して働く山下の姿は本当にかっこいい。


明日はいよいよ披露宴。

そんなイベント、おじさんとおばさんの結婚に必要とは思えないのだけど、おばあちゃんお手製の衣装は着たい。そんな思いで自分の店を使ってこじんまりと開くことにした。披露宴とは名ばかりで、身内だけの小さな食事会だ。スピーチも余興もない。


フレンチトーストとコーヒー。3人分の卵と牛乳はあったかな。冷蔵庫をのぞき込んでいたら、後ろで人の気配がする。振り向くと粉まみれの山下だった。

「ちょっと待ってね、すぐ支度する。」

唐突に唇が塞がれる。


「!?」

「いや、披露宴でファーストキスっていうのも変かと思って。」

確かにそれは変だ。でもそれと同じくらい、ムードなくいきなり開きっぱなしの冷蔵庫の前でキスをしてくるのもおかしい。


少年のようなおじさんに抱きつくと、覆いかぶさるように抱きしめ返してくれた。見た目で違いは分からないかもしれない。でも私にははっきりと分かる、タレントハグとは違う本気の温かく優しい抱擁。

商品としてのアイドルを絶対に推さなかった私。これからは人生をかけて一人間としての西園寺亘を推していく。





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推される山下、誰も推さない私 穂高 萌黄 @moegihodaka

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