第84話 大事な報告
山下が演出家として復活する、その作品の制作発表の日にちが決まった。そしてそれは私の婚約発表の日でもある。
ホテルの宴会場を使うのだから、恐らくずっと前に決まっていたのだろうけれど、私に知らされた時、その日はわりと迫っていた。
「なんでもう少し早く教えれくれないのよ。」
「しょうがないだろう、決まりなんだから。」
「決まりって言ったって、私もその席に出るんでしょ?」
「当日に言われたわけじゃないし、何とでもなるじゃないか。」
初めてのケンカはしょうもない理由で勃発した。
「もういい。」
乱暴に電話を切り、再び鳴り響くコール音を無視して夕飯の準備に取り掛かる。
ひたすら野菜を切りながら、これからの予定について頭を巡らせる。
小一時間かけて作った料理を5分で食べ終え、一日の汚れを10分のシャワーで洗い流すと、メモに思ったことを書き連ねてみた。味気ない一日の終わり方。
やっぱり時間が足りない。ギリギリだ。
翌朝、必要な物を買いそろえに出かける。消耗品は通販で済むけれど、食品はどうしても自分で足を運ぶ必要がある。積載量の少ないロードバイクにパズルみたいに上手く組み合わせて積み上げた荷物。バイクがトナカイに見えてくる。
「明日の晩、帰ってきてよね。」
丸一日放置したスマホには何度かの着信があった。ワンコール鳴り終わる前に山下の声が聞こえる。
「え?そんな急に言われても。」
「決まりなんだけど。」
「決まりって誰の?」
「私が決めた。帰って来れないなら仕方ないけど。」
「いや、何とかする。7時までには戻るから待ってて。」
ケンカして、謝るタイミングを逃した二人はなんとなくテンションが低い。
しかし、そんなことを気にしている暇はない。時間はどんどん過ぎていく。
店のキッチンで下準備。ドリンク、おつまみ、煮物、揚げ物、刺身。夕方にはクタクタになった。そこへ藍ちゃんがご両親と一番乗り。
「さつきさん、今日って何の日だった?」出番を待つ料理の数々を見て驚いている。
「藍ちゃん、とりあえず手伝って。」
精魂尽き果てた私に代わり、藍ちゃん家族が店の庭にテーブルを出し、椅子をセットし、テーブルクロスを敷く。
「これで大丈夫?」
「うん、ありがとう。助かったぁ。間に合わないかと思った。」
そこへ次々と町の人が集まり始める。町の人たちとの今までの付き合いを忘れて、全部一人でやろうとしていた自分が少し恥ずかしい。私が作った食事の量と同じくらいの手土産が所狭しと並び始める。おかず、おにぎり、お酒、お菓子。山下が戻るのを待つばかり。
予定より、少し早めに戻った山下は店の前の騒ぎに驚いていた。
「メイ、ただいま。どうした?」
「お疲れ。こっち来て、早く。」
エプロン姿の私と、舞台の準備で疲れたラフな格好のおじさん。
二人並んでテーブルの前に立つと、親方からヤジが飛ぶ。
「なんだ、お前たち急に呼び出して。」
「呼び出し?何のこと?」何も知らない山下は不思議そうに私と親方の顔を交互に見ている。
「みんな、忙しいところ集まってくれてありがとう。大切なことが決まったから、一番に大切なみんなにお話する必要があると思って、この場を設けたの。私と山下、正式に結婚することになった。」
そんなに長い言葉じゃないのに、話し終えたら息が切れ、急に緊張が襲う。周りが一瞬静かになった。
「えぇ?なんか変なの。」
口火を切ったのは藍ちゃんだった。
「とっくに夫婦みたいなもんじゃない。」大人びた一言をきっかけにみんなが笑いだす。
「とりあえず、乾杯!」
親方の一声でみんなが一斉に飲み始める。山下のグラスには次々とビールが注がれ、お祝いの言葉が飛び交う。事情をやっと理解した山下はただただ嬉しそうにみんなからのお酌を受け、ハグをし、握手をしている。
「山下、私には優先順位があるから、勝手にさせてもらった。」
「ごめんな、手伝わなくて。こんな素敵な形でみんなに報告出来てよかった。」
「みんなが喜んでくれてよかったよね。」
「うん、この町のみんなに祝福されているのが本当に幸せだ。」
瞳が光っている。人を感激させるのがお仕事なのに、こじんまりした食事会で感激して目に涙をためている。
人生で初めてうれし涙を流したのはいつのことだったろう。いくら思い返しても記憶にたどり着かない。映画やコンサートで感動して泣いたことがあっても、嬉しくて泣いた経験が私にはない。多分、今日が初めてだ。山下の隣で私も静かに涙を流した。山下だけじゃない、周りの人たち皆が自分を大切に思っていくれている。そう実感できたから溢れた涙は、恐らく自身の結婚を喜ぶ女の涙に見えてしまった。
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