第70話 入院

「誰にも迷惑かけずに旅立ちたいのよ。」

おばあちゃんは、時々そんなことを口にした。そのたびに私は笑い飛ばしていた。

ベッドで静かに眠るおばあちゃんの横に座ると、あの言葉が重くのしかかってくる。


この前まで元気に働いていた人とは別人に見える。少し小さくなった気がする。不安でたまらなかった。唯一救いだったのは、彼女が全く苦しそうじゃないことだ。みんなに優しい人が、自分だけ苦しい思いをするなんて絶対におかしい。そう考えると心配よりも怒りが勝ってきて、何かに当たり散らしそうになる。


「どんな具合?」

どのくらいの時間がたったのか、すごく短かったような気もするし、何日も経っているような感じもする。山下と親方が駆けつけて来た。

「点滴して落ち着いてるけど、まだ何も分かってなくて。」

検査の結果も分からない。おばあちゃんも目を覚まさない。暗く長い時間。窓の外の青空はフェイクにしか見えない。

二人の顔を見たら、涙がこぼれ落ちた。私ってこんなに泣き虫だったっけ。


「メイ、落ち着いて。頑張って付き添ってくれてありがとう。」

小さく震えている私の両手を包むように握る。優しくされると落ち着くどころか、声が出てしまう程に泣いた。鼻水がシャツにつくのも気にせず、山下は私を抱きしめる。

「目を覚ました時、メイがそんな顔をしてたら、おばあちゃんが不安になるぞ?」


優柔不断で判断力のない根無し草は、私と違っていつでも馬鹿みたいに優しい。私が怒ると少し悲しそうな顔をするけど、絶対に言い返してこない。そして弱っている時にはこれでもかという程手を差し伸べてくれる。優しくしてほしいのに、実際そうされると罪悪感が湧き上がる。大喧嘩にでもなった方が自分の中でよっぽど納得がいく。甘えていて、しっかりしていないのは山下ではなく私の方だ。


「おい、ばーちゃん死んだわけじゃねーんだから。」

親方の一言で、やっと私の涙は引っ込んだ。

私が泣き止んだのを見届けて、山下は病室を出る。戻ってきた時には三人分の缶コーヒーを持っていた。私の大好きな人達を山下も愛してくれている。それが心地よかった。コーヒーが心に浸みる。


「やっぱり缶コーヒーは味気ないな。」

私の思いとは真逆の言葉が親方の口から出る。

「だろ?俺も同じこと言おうと思った。」山下まで。


「さつき、今日も帰ったらコーヒー頼むな。」

「メイ、俺も。」

「お前が辛気臭い顔してたら、町が暗くなるぞ?」


そんな言葉が私の涙腺をもう一度開く。

「さつき、俺の話ちゃんと聞いてたか?」

親方がいくら言っても、もう涙は止まらない。

おばあちゃんが倒れたからじゃなく、みんなの優しさが嬉しかったから。


私は幼少の頃から親に褒められた記憶がない。

「もっと頑張れ、なぜ出来ない?こうすればさらに良くなる。」

どんなに頑張ってもそんな言葉ばかり投げかけられて、私は頑張るのをやめた。

褒められたいのは早々に諦め、何も言われないためにはどうすればいいのかを必死で考えて、挑戦することをやめてしまった。

友人も、親の気に入らないタイプは全て切り捨てられた。私は生涯孤独だと幼い頃に覚悟を決めていた。それなのに、今の私の周りには温かい人たちがたくさんいる。両親から見たらとんでもない光景だろう。汚れた作業着の大工。明日の見えない元芸能人。結婚もせず、敷地内に男を住まわせている。何が正しいのか。自分のことは自分で決めるのが正しい。やっとそう思えるようになり、そう生きられるようになった。


泣き止んだら、ちゃんとおいしいコーヒーを出そう。

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