第68話 焙煎機

満月の夜。出来上がったばかりの店のカギを開ける。


一番奥に新品の焙煎機が鎮座している。その光沢は木造の古民家喫茶店では異彩を放っている。どちらかというとアンバランスで浮いている。すぐに必要な機械ではなかったのに、レイアウトが決まった時に勢いで導入してしまった。いずれ必要な物とはいえ、安い買い物ではない。こうして私は手元の現金を失っていく。山下は自宅部分の支払いをキャッシュで済ませるらしい。店の建物や敷地は私の財産だから、私一人で何とかしていかなければならない。二人で折半にしようという山下の申し出を無下に断ってしまった。胃が痛む。


飾りのように置いてある麻袋には全て生のコーヒー豆が詰まっている。取り出すとなじみ深いコーヒー豆とは程遠い淡い緑色の粒が顔をのぞかせ、植物独特の青臭さを放っている。これを煎って粉砕して飲み物にするなんて一体誰が思いついたんだろう。


ステンレスのトレーいっぱいに生豆を広げる。変形した豆や虫食いのある物を取り除くためだ。最初の頃はいい豆と悪い豆の区別がつかなかった。選別が面倒になって、そのまま焙煎していた時期もある。私を初心に返したのは山下だった。麻袋の中から小石を見つけ、私に差し出した。

「お客さんからお金もらうのに、これはダメだ。」

演出にもダンスにも一切妥協をしなかった元アイドルの言葉は重い。招待してもらって、ステージに足を運ぶたび、もう少し手抜きをしてもいいんじゃないかと思っていた。そんなに高く足を上げなくても大丈夫。少し歌が下手なくらい大丈夫。だって、お客さんはあなたを見に来ているのだから。一人が失敗してもグループなのだから。そんな風に考えていた。でも一度もプロは手抜きをしなかった。


「時間なかったら俺がするから。」

怒るどころが笑顔で手伝おうとする山下は、私が手を抜いてそんな事態になっているとは一ミリも思っていない。おじさんの純粋な言葉に罪悪感を覚えつつ、その日から私はハンドピックに精を出した。


選別した豆を正確に計量して焙煎機に入れる。

搬入の時、お父さんと一緒に手伝いに来てくれていた藍ちゃんが、

「機関車みたい。」と言った。初めて見る焙煎機が面白かったようで、全てのレバーを動かして帰っていった。その日のうちに焙煎機はトーマスと名付けられた。もみじと同じ。私はあまり名付け親にならない方がいいのかもしれない。


スイッチを入れる。石炭の代わりにガスが燃えて青い炎が揺れている。小窓から少しずつ色を変え膨らんでいく豆が見える。やがてポンポンと音を立てポップコーンのようにはじける。トーマスが今にも走り出しそうな気がしてしまう。さっきまで一緒にいた山下の姿がない。記念すべきトーマスと作る最初の珈琲豆なのに、どこへ行ったんだろう。窓の外にシルエットがあった。ベンチに座ってコーヒーを飲んでいる。


焙煎を1バッチだけ済ませて様子を見に行くと、テーブルには私のコーヒーも用意されていた。月が明るくて、玄関の灯りが要らない。

「座れよ。」

山下は煙突を見ていた。

「ここ、すごくいい香りがする。」

焙煎中は煙が出る。今まで換気扇しかなかったのに、焙煎機導入に伴って煙突をつけた。煙はそこを通って香ばしい香りと共に町に放たれる。


「贅沢な時間だな。」

マグカップを手渡してくれる。

「焙煎したてのコーヒーも飲んでみようか。」

万人に平等なはずの時間がとてもゆっくり流れている。銀色を通り越して月は白い。夜でも間接的に太陽の恩恵を受けて、私たちは外でコーヒーを楽しむ。


月明かりに浮かび上がる山下の横顔が少しかっこいい。もてはやされた若い頃ですら、そんな風に思ったことはなかったのに。


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