第65話 退職
町で働くビジョンが見えて来た。
朝から農家さんを巡る。収穫のお手伝いの時もあれば、配達を頼まれることもある。
車の免許を持っていない私は、バイクのタンデムシートに大きめの荷台を取り付けた。山や海、高速道路を疾走してきたスポーツバイクの見た目が大きく変わる。長年の相棒が少し悲しそうにしている気がする。野菜を積むためのフォルムになるとかっこいいバイクもおっさん化してしまう。ツーリングの時は外すのだから普段は我慢してもらおう。今までと違って、毎日のように私と一緒に過ごせることを喜んでもらうしかない。いつだって自分本位。
農家さんから頼まれる仕事は農作業だけではない。電球の交換や風呂掃除のようなお年寄りには厳しい日常の家事労働も私の仕事になる。賃金をもらえる場合と収穫した作物を報酬としていただくケースがある。
食材には困らないわけだが、お金がないと困るので、午後からは町の会社で働く。小さな町工場が私を喜んで雇ってくれた。とにかく仕事は何でもだ。生産ラインの単純作業もあれば、事務作業や清掃も。覚えなければならないことが多い。みんなが口を揃えて「さつきちゃんなら大丈夫。」と言ってくれる以上、頑張らないわけにはいかない。
夜と週末は自分の店で働く。平日の昼間は山下に任せっきりになる。シーズンによって農家さんの仕事が少なかったり、工場の仕事が少なかったりすれば、店に出られる時間が長くなる。店がもっと繁盛したら、ゆくゆくはお店一本で生計を立てていきたい。それまでは寝る間を惜しんで焙煎をして、農家さんを巡り、工場で働くというわけだ。正直なところ不安しかない。山下はカウンターで私のためにコーヒーを淹れ、穏やかにほほ笑んだ。
「大丈夫。メイの人生、自分の思うようにしたらいい。俺もそうしてる。メイのことも応援してる。」
自分の家を持たない、喫茶店に住むやどかりさんはいたって心穏やかで私にいつも前向きなメッセージをくれる。
「頑張るしかないよね。ところでいつまで荷物預かってもらうつもりなの?農家の納屋ってすぐに物がいっぱいになるよ?」
自分の話になると途端に黙り込む。
「俺さ、」
やっと口を開いたその声はとても小さい。
「家を買ったり借りたりするお金がなくて決められないわけじゃないんだよ。」
貯金をちゃんとしていることは前に聞いた。
「親方が口利きしてくれたところ、何が気に入らなかったの?」
「そうじゃなくて、ここが好きなんだよな。」
洗い物をしながらつぶやく。
「勝手にここが俺の居場所だって思っちゃって。たとえ近所だとしても引っ越したらどうなるんだろうって。なんかよく考えたら盛大に勘違いしちゃってるよな、俺。だってここはメイの家だし、メイの店だもん。」
顔を上げて笑った。私の人生がどんどん変わっていく。音を立てて変わっていく。
「山下、もう一度親方と町を巡ろう。」
少し悲しそうな顔をした。
「二人の貯金がいくらあるのかもきちんと確認して、店を出す土地を探そう。この休憩処はいったん潰して、二人で暮らせる広さの家に改築しよう。」
私の行動力と発言力。静かに喜んでいる山下の女々しさ。性別が逆だったらよかったのに。そして口に出した以上後戻りはできない。
長年勤めた会社に出した退職届はすんなりと受理され、送別会もなく、私は完全に町の人間になった。いざ辞めてみるとむしろ清々しい。もっと早くこうしていたらよかったとすら思う。
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