第63話 実の息子

おばあちゃんの家に泊まった時は、必ず朝食の匂いで目が覚める。


隣で寝ていた彼女がそっと寝室を出たことに気づかない。普段ではあり得ないほど眠りが深くなる。そして、朝食が出来上がりそうなタイミングで目が覚める。一緒に支度をしたいのにと、毎回後悔する。


「おはよう、ゆっくり眠れた?」

おばあちゃんの笑顔でさらに罪悪感が増す。山下はまだ起きてこない。私よりひどい。

「手伝おうと思ったのに。」

完全に甘えている私は、素直に「ありがとう。」とか「ごめんね。」と言えない。それを見透かしているおばあちゃんは、リズミカルにネギを刻みながら、

「お茶碗用意してね。」とだけ幸せそうに言う。


土鍋から蒸気が立ち昇る。おばあちゃんの家には炊飯器がない。毎日土鍋でご飯を炊く。彼女に教えてもらってから、私も土鍋で米を炊くようになった。仕事が減った炊飯器に野菜を放り込み、煮物を作っておばあちゃんを驚かせている。

「私も炊飯器買おうかしら。」炊飯器が聞いたら泣いてしまうかもしれない。


紅しょうがの入っただし巻き卵、焼き魚、漬物、肉じゃがと納豆と味付け海苔。丁寧な朝食が並んだところで山下が起きてくる。亭主関白か。

「おはよう、おー!すげー旨そう。」

山下は、引退してからわりとすぐに華のないおっさんと化した。メイクさんも衣装さんもいない今、ボロボロのトレーナーとジーパンを着続けている。私服にはあまりこだわりがないらしい。いつの間にか頬に小さなシミが出来ている。それも気にしていないようだ。


「自分で作ると毎回トーストとコーヒーになっちゃうからさ、和食嬉しいなぁ。ありがとう。いただきます。」

素直にありがとうと言葉にする山下を見ると自分の性格が嫌になる。


いつもより遅めの朝食。みんなでお喋りしながら楽しくいただく。おばあちゃんは私たちが訪れた時は食事中にテレビをつけない。

「お話を聞かせて。」

以前、食事中にリモコンに手を伸ばした山下が咎められた。楽しい話もそうでない話も、おばあちゃんは真剣に耳を傾けてくれる。ここで相談しても解決しない仕事の悩みも聞いてもらうと、まぁいいかという気分になる。


「そろそろ、店開けようか。」

席を立とうとしたところで、誰か入ってきた。扉の開け方が乱暴だ。穏やかなおばあちゃんの表情が一瞬曇る。


「誰?」

入ってきた男は挨拶もなく私たちを不審そうに眺めて一言だけ放った。

「さつきちゃんと山下君、ちゃんとご挨拶して。いつもお世話になっているの。」

そう諭すおばあちゃんを一瞥し、「ふんっ。」と鼻で笑った。お前こそ誰だ?と私たちは思っているけれど、もちろん口には出さない。


「ごめんね、息子なの。」

このおばあちゃんの息子がどうしたらこんな風に育つ?目を疑う。まるで非常識が服を着て歩いているような人だった。

「ははっ、何を謝ってるんだ?」そう言いながら息子と紹介された男はおばあちゃんに手を出した。出された手にはお札が乗せられる。


「じゃ、ごゆっくり。」

急に笑顔になった男は、こちらに背を向けて扉に手をかけた。

「ちょっと、待て。」

堪えきれなくなった山下が呼び止める。

「山下君、いいの。それより一緒に洗い物してちょうだい。」

一瞬男は振り向いたが、おばあちゃんの一言を最後まで聞いてから、にやりと笑って出て行った。


「何?今の。」

私も怒りを隠せない。自分と同じくらいの年代の男が一人暮らしの実母のところへ金の無心に来ている。


「さつきちゃんもごめんね、変なところ見せちゃって。」

そういうことじゃない。

「優しい子だったのに、どこですれ違っちゃったのかしらね。」

目に涙をにじませながら笑っているおばあちゃんを直視できなかった。


「かなり長い付き合いになるけど、全く知らなかったな。」

開店準備をしながら山下がつぶやく。いろいろあったんだろうけど、やっぱり許せない。怒りのやり場がない山下、大きな音を立てて全力でティッシュボックスを潰す。


驚いたもみじが怒り狂って吠えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る