第58話 強制退去

山下が事務所を移籍するタイミングで住み始めたマンションは、アイドル全盛期の時に暮らしていたところと比較すればこじんまりしてはいるものの、私のような一般庶民からすれば、アゴが外れそうな家賃だし、一人で暮らすには広すぎる部屋だ。


前の事務所の山下さんに探してもらったその部屋を本人は大層気に入っていた。問題は契約だの支払いだのそんなややこしい手続きを全て山下さんに任せていたことだった。


「家賃が引き落とせません。」


不動産屋から電話が来た時、山下は状況を半分くらいまでしか理解できていなかった。買い物も全てカード。毎月口座には十分な金額が入金される。引退してその入金が止まり、支払いの一方通行になって、預金残高が少なくなっても気づかなかったらしい。そのうえ、月の半分以上を我が家の離れで過ごし、知らない電話番号から連絡が入ると不審がって出ない始末。連絡がつかないため、不動産屋から最終通知の郵便が配達されていたのにも気づくのが遅れた。


「こんな郵便がポストに入ってた。」

赤字で重要と表書きされた封筒はただならない雰囲気を醸し出している。とんでもない緊急性と悪い結末しか想像できない。


恐る恐る開封する山下の横から書類を覗き見た。

「○月○日までに家賃の入金が確認出来ない場合は、強制退去と致します。」

と太字で書かれた手紙とともに、振込用紙が入っていた。期日はかなり過ぎている。


「何これ?どうしよう。」

どうしようとは、どうにかなる可能性のある人が使う言葉であり、この書面を読む限り、山下にはその選択肢はない。


「なんでこんな大切なことを放置したの?」

私のダメなところ。すぐになぜだどうしてだと相手が思い通りにならないと、追い詰めてしまう。そして、今から理由を聞いたところで解決策が見つかるわけでもない。


「・・・。」

「貯金ないわけじゃないんでしょ?」

幸い、山下はごく普通の大人として、いくつかの銀行口座を持ち、コツコツと貯金をしているようだった。

「あんたみたいな仕事、いつなくなってもおかしくないから貯金だけはきちんとしておけ。」と母親にきつく言われ続けたらしい。


家族の話を初めて聞かされた。そんな至極まともなことを言うお母さんから、いつだって風まかせの山下が生まれた。人間って分からない。分からないから面白い。ただ、今は面白がっている場合ではなかった。


山下に懇願され、何度も電話がかかってきていた番号に折り返してみる。せめて留守番電話のメッセージくらい聞けばよかったのに。

「お忙しいところ恐れ入ります。西園寺の代理でお電話させていただいております。」

電話に出た男性は、淡々とした口調ではあったが、やっと連絡が取れたことに対する安堵の気持ちがたっぷりと伝わってきた。この一度のチャンスを絶対に逃さないとでも思ったのか、息継ぎを忘れているのではないかと思う程のペースで決定事項を次々に告げる。


退去日、それまでにすべての家財を運び出し借りた時の状態にすること。立ち合い時に鍵を返却すること。明らかに故意に壊したとみなされる個所については、修繕費の支払いをすること、云々。店のカウンターでキッチンペーパーにメモを取りながら話を最後まで聞き、念のために私の携帯番号を伝えると相手は安心して電話を切った。今不動産屋から聞かされたことをかみ砕いて山下に説明している時間はほとんどないと言っていい。


「山下、家賃滞納で今のマンション出なきゃいけなくなったから。」

「え?貯金解約してくる。」

「そういう猶予期間は過ぎたの。電話にちゃんと出てたらもう少し前に気づいたのかもしれないけど。家を借りるって責任があるんだからね。今月中に引っ越さないといけないって。新しい家自分でちゃんと探せる?」

おんぶに抱っこで生きて来たおじさんは黙ってしまった。

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