第52話 引退公演

ついにこの日が来てしまった。

当日を迎え、私自身が山下の引退を望んでいなかったことを改めて実感する。ただ、本人はそれを強く望んでいた。鬱と寄り添ってタレントを続けるよりも、小さな町の人たちのためにコーヒーを淹れて、今までよりずっと安い賃金で働くことに大きな喜びを感じているようだった。私には応援する以外の選択肢はない。


もみじにいつもより早めの夕食を与えて、みんなで電車に乗る。おばあちゃんの家を訪ねたり、親方にお弁当を届けたり、そんな風に町だけでコミュニケーションを取ってきた。一緒に電車に乗って出かけるのは初めてのことだ。わりと大勢なので、適当に入った店に人数分の席がすんなり空いているはずがない。にもかかわらず、何の予約もせずに出発してしまった。


「いったん、別行動にしよう。」

好みもあるし、それぞれ行きたいところもある。適当なグループに分かれて、劇場前で再集合することにした。相変わらず私は行き当たりばったりで、みんなを乱暴に東京の雑踏に解き放ったが、誰も文句を言わないどころか、それぞれが楽しそうに散っていった。その後ろ姿は修学旅行の自由時間を思い出させる。


劇場の前まで行って場所を確認し、パンフレットを買ってから、おばあちゃんと並んで近くを散策した。私たちの前には藍ちゃんとお母さんが歩く。今日のためにワンピースを買ってもらい、その足取りは緊張している。舞台を見ることや東京と言う都会に緊張しているのではなく、きっと服を汚す心配をしている。子供を育てた経験はないけど、子供だった経験はあるので、なんとなく分かる。


藍ちゃんが有名なフルーツパーラーに行きたいと言ったので、二人と別れて私はおばあちゃんと一緒に和食のお店に入ることにした。手を繋いで暖簾をくぐると、優しそうな女将さんが笑顔で出迎えてくれる。

「まぁ、仲良し親子で羨ましい。」

そんな風に見えるんだ。二人で目を合わせて笑った。

舞台のパンフレットを眺めながらミニ懐石をゆっくり楽しむ。


「さつきちゃん、ずっと仲良しでいてね。」

思いもよらない言葉にお吸い物を吹き出しそうになる。

「何言ってるの?当たり前でしょう。こちらこそ、ずっとよろしくね。」

「違うわよ、私じゃなくて。」

おばあちゃんの視線の先にはパンフレットの隅に載っている山下の写真があった。

「山下君。引退した後も仲良く支えあってね。」

仲がいいとか、支えあうとか、わざわざ言葉で考えたことがない。仲が良くて支えあっているんだろうか。おばあちゃんの短い一言でいろいろ考えてしまう。


「大丈夫。でも、本人は何も言わないけど、引退したらきっと心細いと思うんだ。時間がある時でいいから会いに来てあげてね。私も待ってるから。あ、そうそう山下最近パンケーキ焼くようになったんだよ。めちゃめちゃ美味しいの。メニューに載せる前におばあちゃんには味見して欲しい。」

一気に喋って、お吸い物を口に運び深く息を吐いた私をホッとした表情で見ている。


バディ。山下も私をそう思ってくれているんだろうか。

気持ちは言葉に出さないと伝わらない。


あっという間に劇場が開場する時間になった。

みんながいろんな思いを抱いて座席に着く。ほどなく会場の照明が落とされた。

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