第50話 ストーキング・カモフラージュ
電車に乗り合わせた独身会の男が、今度は向こうから声をかけてきた。
「お疲れ様。」
「あー、お疲れ様。最近よく会うね。」
一瞬困ったような表情を見せたように感じたが、すぐに笑顔が戻った。
「あんまり残業ないの?」
「仕事はあるんだけど、郊外に引っ越したからなるべく早く帰りたくてね。」
「ふーん、そうなんだ。お茶しない?」
「ごめん、今日は急ぐんだ。」金曜日の晩は、よなよな焙煎をする。
男の目に、怒りを含んだ力が入った気がした。
気のせいか。少し残念そうに笑っている。
「そうか、じゃあまたの機会にしよう。これから急ぎの用事があるの?」
「家の用事がたまっているし、明日は朝が早いからね。」
余計なことは言わない。
「一人暮らしで?なんか大変だね。」
「そんなことないよ。自分のペースでお気楽に暮らしてる。じゃあ、お先。」
最寄り駅で降りる。
家でやらなきゃいけないことを頭の中で繰り返す。
洗濯、食事、焙煎。どの順番でするか、焙煎はどれだけするか、寝るのは何時になるだろう。やってみないと分からないことで心配する性格は一生直りそうにない。
関心のない物は一切目に入らない。私のいい所であり、悪い所でもある。
電車を先に降りて、別れたつもりだった。同じ駅で降りたのに全く気付かなかった。
それは、電車の中で初めて見かけた日から始まっていたのかもしれない。
「ただいま。」
最近は先に離れに顔を出す。一人で夕食を食べるのが寂しいとおばあちゃんがよく訪れてくれるようになったから。やっぱり今日も来てくれていた。こっちのキッチンで簡単に作って一緒に晩御飯を済まそう。
「おかえり。」山下とおばあちゃんの声が重なる。
「お疲れ様、お腹空いてるでしょう?」
晩御飯はおばあちゃんによってすでに出来上がっていた。
「わー、ありがとう。みんなもう食べたの?」
「これからよ。さつきちゃんそろそろ帰ってくると思って待ってたの。」
テーブルに三人分の食器が揃えてある。
食事をしながらの会話が楽しい。今度はおばあちゃんの家でご飯食べたいとか、煮物の作り方を教えてとか、そんな他愛のない話。
山下の足元で食べこぼしを待ち受けていたもみじが急に吠える。
外に人影。むやみに人に吠える犬じゃない。
恐る恐る、戸を開けると外にいたのはさっき電車で別れた男だった。
「なんで、私の自宅知ってるの?どうしたの?急に。」
混乱する私に、男は畳みかけるように言った。
「嘘ついてたのか!家族がいるなんて聞いてない!」
正気を失ったまなざしで大声を出す。事の次第が分かり少し遅れて恐怖が襲ってきた。声が出ない。次に言葉を発したのは山下だった。
「どちら様?メイの知り合い?」
その声で我に返る。
「あ、この前の同窓会で会った、中学の時の同級生。」
「そかそか。初めまして。先日はさつきがお世話になりました。」
長身の山下が頭を下げると、男はひるむ。
「これから食事なんですが、ご一緒にいかがですか?ちょうど僕の母も来たところなんですよ。」
調子を合わせて、おばあちゃんが微笑みうなづく。
「お前、俺のさつきを・・・。」
意味の分からないことを言い出し、山下を睨みつける。慌てて電話をかけようとした私の腕を山下が掴んだ。
「俺のさつきってどういう意味?」山下も少し語気が荒くなる。
「大きな声出したら、もみじちゃんが驚くでしょう?あなた、うちの嫁に何かご用?」おばあちゃんが穏やかに会話に入ってくる。
今度は私を睨みつける。しかし圧倒的に不利な体制で、男は勢いを失っていた。
「既婚未婚に関わらず、やっていいことと悪いことがあるよな?」
山下の静かな一言で、男は舌打ちをして帰って行った。
体の震えが止まらない。
テレビドラマのようなことが、自分の身に起こるなんて想像もしていなかった。
おばあちゃんに手を握られたら、今度は涙が止まらない。
「大丈夫。」山下が言う。根拠のない大丈夫を言わないで欲しい。自宅が知られている。
「多分、あいつはもう来ない。来ても俺やおばあちゃんがいる、親方だって来てくれる。俺も若い頃、変な女にたくさん付きまとわれた。」
ハッとして、山下の顔を見ると、それは穏やかな笑顔でこっちを見ていた。
「マンションのゴミ捨て場の中に潜んでいたこともあるんだぜ。そういうやつの金が俺の収入になってたわけだけど。」
そんな話、今まで一度も聞いたことがない。基本ネガティブな話をしない人だ。
「そんな奴らも今は結婚して、子供もいて、うちのゴミ捨て場に潜んでる場合じゃない。メイも大丈夫。」
やっとの思いで、声を出す。
「おばあちゃん、今日一緒に泊まってくれない?やっぱりちょっと怖いよ。山下も。」
「もちろん。」また二人の声がシンクロする。
初めて、山下が私をさつきと呼んだ。
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