第47話 最終公演

舞台の稽古は基本2ヶ月程度だ。


台本の読み合わせをして、実際にステージに立った時の動きや位置も細かく練習するにはとても短い時間のように感じる。しかし、舞台に立つことを生業にしている人達にとって、それは当たり前。それどころか、いくつもの仕事を掛け持ちしている役者さんは全ての台本を頭に叩き込み、それぞれの現場でその役になりきる。想像がつかない世界。私だったら、絶対に頭がこんがらがってしまう。小学校の学芸会でもお手上げだった。


山下の引退公演の幕が開けた。

私や町の人にとっては引退公演でも、世間では主演俳優の10周年記念公演と銘打たれている。これも当たり前のこと。チケットを手にした全国のファンたちが、公演日を心待ちにしている。訪れる土地に合わせて、セリフにアドリブを入れたり、ご当地ネタを仕込んだり、幕が開けてからも台本はどんどん書き換えられる。私たちが行くのは最終日。地方で幕を開けたばかりなのに、本人でもない私がすでに緊張している。


本番が始まったということは稽古が終わったということ。地方を回りながら、地元に戻るタイミングで必ず店に顔を出してくれるようになった。少しやせた山下が言う。


「失敗も楽しまないと、舞台の仕事はできない。上手にやろうとか、失敗しないようにしなきゃとか考えると、逆に失敗するし、その後修正がきかなくなる。失敗もお客さんが笑ってくれたら成功なんだよね。」


店ではいつものエプロンと帽子。もう眼鏡はかけない。

「そんなものかな。」

私が最後にステージに上がったのはいつだろう。

多分、高校の卒業証書授与の時だ。文字通りステージに上がっただけ。

山下の言葉に大きな説得力を感じながらも、イマイチ共感できないのは仕事が特殊すぎるからか。


「メイも心に余計な力が入っちゃってるから、ちょっと抜いてごらんよ。失敗してもいいし、上手に生きられなくて当たり前だろ?楽しんで生きないと。メイは会社の道具じゃなくて、心を持った人間なんだからさ。」


お客さんが途絶えた夕方。

二人と一匹で過ごすひと時。また涙が出そうになったのをこらえる。

いつも目を逸らさない山下が、こっちを見ないで言った。


「我慢するな。泣きたい時は泣いていいんだぞ。」

いつだったか、玄関で山下を抱きしめたように、今度は山下が静かに泣く私の手を握った。


何かとても大切なことが心の中で決まった。


急に降り出した雨が体を冷やす。山下に握られている左手だけがほわっと温かい。

この町に来てから、人と触れ合う機会が増えた。それまで人に触れるなんて、駅ですれ違う時に見知らぬ人と肩がぶつかるくらいだった。おばあちゃんの手を握り、藍ちゃんを抱きしめ、そして山下に手を握ってもらう。人を温め、人に温めてもらう。そんなとても大切で簡単なことを回避して生きてきてしまった。与えて与えられる生活は、私を幸せにしてくれる。そしてそれは、同時に他の人も幸せにしている。いたってシンプル。


「山下、仕事探してみる。店と両立させやすい条件の仕事。」

私の一言にじっと目を見てほほ笑んでくれる。

「どんな結果でも、俺は応援してるからな。メイも俺の最終公演応援してくれよ!」

「舞台は最終だけど、その後はここでバリバリ働いてもらうからね。」

いつも通りの笑顔が戻ると、珍しくもみじがワン!と吠えた。


おかわりのコーヒーを淹れると、山下がサンドイッチを作る。

「もうすぐ晩御飯の時間なのに?」

「いいじゃん、おやつみたいなもんだろう?」


もっと若くてお付き合いしている者同士だったら、このなんとなく甘い雰囲気の後、

ハグ&キスになるんだろうなとぼんやり考える。残念ながら、若くもないし交際もしていない。

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